やおいが、「分らない言葉」であることの意味/「腐女子・トラブル」の実相

「好き」を扱う言説には力関係が関わっている。
社会の中で歓迎される「好き」と、歓迎されない「好き」とがあって、
屈託なく表明することのできる「好き」と、それが許されない「好き」とが、しっかりと存在している。そこに、力関係の強弱がある。
そして、「弱い」部類の「好き」をもっている人間はどうするかというと、
言っても歓迎されないために、むしろ傷つくことが多い、ああ、ここではこれを「好き」って言ったらいけないんだな… ということを「学んで」いく。内向していく。クローズドになっていく。
出版業界ないしコンテンツ業界においては、「腐女子」はドル箱化しつつあるけれども、実際、世の中規模でみたら、
「女の」「オタクの」「好き」なんていうものは、いわば底辺レベルのものだろう。


腐女子」がもぐってきた理由というものは、それが分かっていたのでそうしていた、ということじゃないんだろうか。
腐女子をめぐる軸は二つあり、そこが混在するので戦争が生じるわけだが、
ひとつは「版権パロディ」の軸、もうひとつは「男性同士の同性愛文脈愛好」の軸である。
版権パロディをやっていても、男性同士の同性愛の文脈には興味がない人もいるし、逆に、本棚ひと竿分のJUNE・やおい・BLコレクションを持っていても、二次創作を読む/書くことには全く興味がない人もいる。厳密には、前者を腐女子とは呼ばないのではないかと思うが、いまこんなに「腐女子」=女子オタクのように語られている世の中で、そこから「締め出される」というのも、当事者にとっては煩わしいことだ。
ともあれ、「版権パロディ」の軸から見ても、「男性同士の同性愛文脈愛好」の軸から見ても、どう考えても世の中に受け入れられるものではないということで、賢く身を隠していた、ということだろう。


けれども、こうやって「腐女子」、ひいては女子オタクの存在が世の中に喧伝されていくと、いやでも外の目にさらされることになる。
本になり、ニュースサイトや大手ブログが現れ、そのエッセンスが外へ流れ出ていく。腐女子というタームで物を売る、言説を売る、自分を売ることは、時代に即したビジネス・モデルになった。
腐女子の萌え」を教え、その「萌え方」すら手ほどきしてあげて、腐女子との「付き合い方」「出会い方」まで教える。そういう、ナビゲーション・コンテンツというべきものが莫大に増えた。
腐女子であるわたし」を世に喧伝する、そういうスタイルも増えた。
だが、そうした場で供給され、外部が群がってきているものは実は、長い年月醸成されてきた「女子オタク」というエリアの、「うわずみ」の部分にすぎない。


それが「分かって」、また「分からせて」いったいどうするというのだろう。
そのうわずみの向こうには、きっと理解すらすることもできない、おそらく理解を求めてもいない、深い水脈がたゆたっているというのに。
腐女子」エリアに外部が大挙してくる動き、また内部から地図を与え、ナビをしてあげる動き、そういうものに、「腐女子」エリアの当事者が「やってられない」という気持ちを抱くのは、そうした徒労感によるものだろう。


「他に開かれる言葉」になった瞬間に、やおいは効力を失くす。
そういう思いがする。
「他に開かれる言葉」というのは、一見「そうあるべきもの」「正しいもの」であるようで、その逆、「社会の文脈に屈する」ということではないのだろうか。特に、「やおい」というものにとっては、「世の中の『正しさ』の列に敷き入れられる」、そういうことであるような気がする。男の言葉、政治家の言葉、国家の言葉、そういうものの中に引き入れられることが、本当に意味があることなのか。「みんなに分かっていただく」それが、本当に意味のあることなのか。
やおいに通じる」ということと、「やおいである」ということとは、少し意味の違うことだ。
よしながふみは、対談集「あの人とここだけのおしゃべり」の中で、市川ジュンの『陽の末裔』を「やおい」だといった。けれども、それでは、こんなに男×男ばかりが隆盛していることの説明がつかない。もっと厳密な言い方が必要で、私は『陽の末裔』あるいは『ガラスの仮面』は「やおいと通じるもの」、『のだめカンタービレ』は、「やおいの先にあるもの」だと考えている。


逆を言えば、「外の人間には分からない」からこそ、やおいは効力をもつのではないだろうか。
男にはわからない、政治家にはわからない、国家にはわからない。
その価値観とは真逆のものである。
だからこそ、やおいは死なず、流行り廃りを越えても、息を続けていくのではないだろうか。
今はもう珍しくもなくなった、昨今の、「腐女子」エリア参入の動きは、
「なにもかも分らなくては気が済まない」
「自分たちを、カヤの外にしている文化は許せない」
そういった、「世の中」の、傲慢な好奇心の表れなのではないかという気がしている。
そして「世の中」とは、つまり「男」のことだ。


どうも面白いのが、周りの女の人たちというのは、「腐女子」などどうでもよさそうなのだ。
「ねえ、腐女子ってなに?」「最近腐女子ってあるんでしょ?」「森井さんも腐女子なの??」と聞いてくるのは、必ず、男の方だ。そのときの、その人間に潜むある期待値、目をきらきらさせてさえいる感じ、それはいったい何なのだろうと、いつも不快だった。でもそれは言葉を与えれば、セクシャリティの問題と知らずに、考えもせずに踏み込んでくる、無知という名の傲慢な好奇心だ。
それを問題に感じ、腐女子を正しく理解してもらうためにと、腐女子エリアへのナビをする当事者もいる。それは私には、過剰適応の風景に見える。腐女子エリアに注がれる男オタクの目、それが拡大しての各方位メディアからの注目は、まさしく、ジュディス・バトラーのいうところの「トラブル」である。「ジェンダー・トラブル」の一証明としての「腐女子・トラブル」に、いま、このエリアは見舞われている。
それに対応する言葉を、しかし、このエリアはどれほど培っているか?
即応して発する言葉そのものが、「外の言葉」の文脈に回収されていき、過剰適応に拍車をかけるというパラドクスが存在している。
たとえば、性暴力の被害体験について言葉を発するときに、それをエロとして収奪されてしまうのと似た状況が、存在してはいないだろうか。


早くこのお祭り騒ぎが終わってくれないものかと思うが、
一度ここまで大きくなった規模感が、そのまま収束するとも思えない。
腐女子」が注目を浴びたことで、私にとってスムーズになったことなど、考えてみればひとつもなかった。
腐女子は死ね」だの「腐女子自重」だのと、言われうる裾野が広がったというだけの話だ。作り手側が勝手に「男性キャラクター同士のエモーショナルな要素」を投入してくるものを、「腐女子のせいで」と言われる、非難の様式が強固になっただけのことだ。
この騒ぎが過ぎ去っても、痕跡は残るのだろうと思う。

思うのは、早く飽きてくれないだろうか・・・ ということだ。
先日、池袋のまんだらけに行った際、あきらかに冷やかしと分かる、三人組の男のオタクがいた。
棚を探すでもなく、突っ立って、にやにやと笑いながら、店内を見渡していた。
はっきり言って、ものすごく異様だった。
異質な存在だった。そして、嘲笑と悪意に満ちていた。
あの人たちはなんだったんだろう。
腐女子というもの」を、観察したかったのだろうか。
正直に言って、そういう目線というものは、女子更衣室に隠しマイクを仕掛けるような、女子ならではのプライバシーを覗き見ようとするような、卑劣なものだと思う。
それはセクハラ、なのに。
腐女子」だから、そういう冷やかしをしに行っても構わないと、彼らは思っているのだ。


それは本当に、一握りだけのことなのだろうか?
私が見た、彼らが、図抜けて恥知らずだったのだろうか?
そんなことはないような気がする。
こういう有形無形の「視線」と、おり合っていかねばならないのは、本当にストレスだ。
しかも、過去に「おたく」がバッシングされて世間から注目を浴びた時と違って、
おもにオタクの中で、「男のオタク」が、その「視線」の側に回っているのだから、
やりきれないことこの上がない。
腐女子フィーバーともいうべきこの状況は、もしかしたら、
「カテゴリ化して、もの扱いのできる相手」を得たという、
男のカタルシスに対して、最も寄与しているのかもしれない。