「腐女子」は、そんなにそこまで「痛い」のか?

腐女子言説かまびすしい今日この頃、とても、自分がその括りに入っていませんとは言えなくなっている昨今だ。
腐女子」について語られていることがそのまま自分と同じとは思えないし、しっくりこないことの方が多い。でも、そのエリアにいるという実感はある。
或るシンパシーがあり、それと同時にアンチの感情もある。「腐女子」にまつわるすべてを肯定している、という腐女子は、実際には、ほとんど存在しないことだろう。愛着と同時に懐疑的な思いがある。やおいについて言いたいことがたくさんある。その感情の割れも揺れも含めて、「当事者」であるという実感がある。
で、各方向から「腐女子」エリアに飛んでくる言説に接する都度、「お、これ、私に対しても言ってるんだな?」と思いながら、見てきて、聞いてきて、でも、すごく、「?」ってなることが多い。


いつも、「腐女子」を語る言説の中で思うのだけど、
当の「腐女子」にも、その言を聞いてうなずく人たち(多分、多数は文科系男子?)にも、
腐女子」=痛い ということが前提になってる、と思う。
「痛い」「痛くない」という、その是非を論争をしたいわけではない。
ただ、その妄想は、そんなに、そこまで、天然自然に、イタいか? という疑問を持ってしまう。もちろん、痛い要素は多分にあるだろう。妄想にも、お茶を飲みつつ語れるものから、誰にも言えないディープなものまで、様々あるのだ。
でも、確かに、ハアハアしているんだけれど、手前勝手に想像で犯しているようなイメージ・・・ 本当に、「それ」が全てなのか? と、思ってしまうのだった。
この記事(id:mikaki_molly:20070130)では、「おかず」という言葉に、ひっかかって反応した。
確かに、「おかず」は、よく持ち出される概念ではある。まさに「食らう」という具合の、アプローチがあることは否定しない。
だけど、必ずしも、そればっかりじゃない。その、二つの方向は併走している。
だから、
「或るキャラ(またはCP)をおかずにしています」→「なぜなら、好きだから」というよりは、
「『好き』の総体の中に、おかず性も含まれている」ってことなんじゃないか… と、自分に引きつけて、思う。
その順序のほうが、より正確なんじゃないかと。



「彼」に好きな女の子(もちろん、男の子でも)がいるとして、
そりゃ、身勝手なエロい想像をするだろう。つまり、頭の中で「おかず」にするだろう。
だが、その「彼」の中に、真実の… と言ったらギャグになってしまうけど、真心に近いもの、心から好きだと思う……という気持も、普通に、存在しているはずだ。
そう考えると、誰かを(何かを)ものすごく好きになって、エロ妄想に入り込んじゃうのは、そんなに痛いことなのか? むしろ、いたしかたないことじゃないのか? という話になってくる。
というか、世の中的に、「オトコ」に対しては、そういう理解が成立しているのだ。
それなら、女性の場合だって、「好き」の中に「エロ」の要素がセットになってくるのは、むしろ、当たり前のことではないかと思う。「むしろ」というより、「もっと」、当たり前のことだと。


腐女子」エリアにおいて、その表出の仕方は、端から見たら(いや、内部から見ても)確かに「痛い」のかもしれない。
ただ、やおいの世界というものは、約束事と様式美とが過剰に発達した、最高度にクローズドな世界である。そこには「その場のコード」が発達しており、そして、それは外部とはほぼ完全に断裂しているのだった。だから、外側から見たら、まるっきり奇異に見えると。それで、余計「なんじゃこりゃ…!」「痛てえ…!」と思えると。そういうことではないかと思う。
やおい界の高度な達成と様式美性、閉鎖性には、新古今時代の和歌に通じるものを感じる… 幽玄の世界ですよ、いわば)


腐女子の妄想=痛い ということになる構図には、
そもそも、「女の性欲」=痛い という、抑圧が働いているのではないだろうか?
私は、そう考えている。
キャラを勝手にどうこう… ということへの「痛さ」の寡多よりも、むしろ、その抑圧によって、「腐女子の妄想=痛い」という図式は、完成しているのではないだろうか。


ずっとずっと、「女の性欲」というものは「痛いもの」、世の中的に、「在るなんて、とんでもないもの」だった。
それは「タブー」だった。なぜなら、女性の「性」というものは、家父長の管理下にあるべきもの。家父長の管理下ということはつまり、「社会」の、管理下にあるべきものだったから。
だから、「女性の性欲」は、「痛い」。場違いなものである。
もっと言うと、「男に承認されない、女の性欲は、痛い」。
恥ずべきものである。それは、存在してはならないものである。
「それ」が、社会からのアナウンスメントだ。
女性の性欲というものは「痛い」のだ、と、女性自らにも内面化させるほど、世に鳴り渡る、社会のメッセージだ。
腐女子」の過剰な自己否定、「これは恥ずかしい趣味なんだ」という根深い屈託、ときに他者への攻撃性に転嫁するほどの自虐には、その抑圧が介在しているのではないかと思う。


私の好きな、北原みのりさんの「ラブ・ピースクラブ」。
ご存知の方もいると思うが、そこは、「オンナが、オトコ(もっと言うとペニス)に支配されずに、自分の性を楽しもう!」という理念で作られたセックス・トイのグッズショップである。
「女の快楽に、男(男からの「許し」)は、いらない!」と、このショップは主張し続けている。
私は非常にその主張に共感するのだが、
では、そうした主張が、社会からどのように報いられているか?
北原さんの取り組みは、往々にしてメディアから懲罰的な揶揄を受ける。
(例:「週刊新潮id:mikaki_molly:20051005)
興味本位な取材を申し込まれ、「結局、ほしいのはペニスなんでしょ?」という執拗な「勘違い」を受け続ける。
それはひとえに、「男から離れた場所で」、「自由に、女の性欲を主張しているから」。
まさに、そのペナルティだろうと思う。


腐女子彼女。』『となりの801ちゃん』といったカジュアルな腐女子論が出てくる一方で、
「女子が性欲を持つこと」「それを表現すること」について、
まだ、なお、抑圧は存在している。
腐女子彼女。』『となりの801ちゃん』の二つともが、「彼氏から見た彼女(=恋人)の姿」であり、語り手が共に「彼氏」であることは、じつに意味深いことである。
わたしはずっと、やおいについて、「なぜ、女性が性的快感にアクセスするために、男性の肉体を経由しなければならないのか?」ということが不思議だった。また、それが、長いこと不満な点でもあったのだ。それゆえに、私は、やおいへの疑義を捨てることができない。
だが、「女性が性欲を表明すること」で被るペナルティ、女性の性欲がなおクローズドにされていることを考えると、快楽に自在にアクセスするために「男性の肉体を経由しなければならない」その理由も、読み解かれてくるのだった。


腐女子を語る言説の、バッシングの側面、2ch寄りのコードの中で表現される、主として男性から発せられるのであろう、過剰に攻撃的な言辞。「キモイ」というような言葉。それらにも、この「ペナルティ性」が、強く起因しているように感じる。
その声を聞くたびに、胸苦しくなるのだ。
「女は妄想をするな」「男とかかわりの無いところで、勝手に性欲を持つな」と、弾劾されているかのようで。


やおいが抑圧の所産だなんて、冗談ではない、我々はもっと健康的に、主体的にやおいを享受しているのだ、と主張する向きも在るだろう。
今と昔とでは社会状況も違うし、現在は、もっとフランクになってきているな、とも感じる。
だから、「全然、私の『いま』と違う!腹立たしい限りだわ!」と思われる諸姉には、どうか失礼を許して欲しい。
けれど、私は、私の考えとしては、現在の、BL化した、ライトな場にあってすらも、
やはり、「女性が性欲を表明することへの抑圧、またペナルティ」が、やおいという表現には、深く深く関わりあっていると考えている。


私としても、健康的に、楽しく、日本文化のある達成(と言って言いすぎではないだろう)であるところの「801」を享受したいのだ。
抑圧とやおいには深い関係が在ると述べた。が、その一方で、抑圧が相当程度払拭されたとき――女性の社会的な可能性が拡大し、性への自由、性からの自由が獲得され得たとしても、「やおい」が無用のものとなるかどうかは、正直、疑問である。むしろ、無くなりはしないのではないかと思う。「やおい」の面白さ、醍醐味というのは、きっと確かにあるのだ。それはもしかしたら、不平等性や力関係の格差、そういった、「不健康さ」「不平等さ」を、楽しむものなのかもしれない。
けれど、「それ」はそれとして、その一方で、主体としての「自分」の、妄想の妥当性、性欲、覚楽することの妥当性を、もっともっと回復していっていいと思うのだ。世の、女子たちというものは。まだまだ、状況は全然足りていないと、自分をかんがみても強く思う。なんだか知らないけれど、やりづらい。自分が、自然に、ここにいることがしづらいと、折につけ感じている。この、大切な、自分の「妄想」、それをおもてに表明していくということについてさえ。


そうやっていろんなことを突き抜けられたとき、(むろん、それは義務でもなんでもないが)
世の中の「801」はどう変わるのか、個人的にはとても興味がある。とても、見てみたいと思っている。
とりわけ、女性が性の主体性を回復・獲得したのちに、編まれる、「801」の風景を。
けれど、それは結構先の話になりそうだな…と、自然に思えてしまうのが、実に切ないところである。