受・攻・萌えは「寓意」である


キャラクターについて空想話をするとき、「100%、その説がリアル」だと思ってしゃべっているわけじゃないんですよね。
ひとつの「寓意」なんですよね。

なので、巨大な「たとえ」なもので、真面目に「それはない」って言われても、
「ないって言われても、たとえだもの…」って、正直、思います。

で、思うことは、自分が考えたこともないから「それはない」っていうのは、違うんじゃないのかなー、と。
「わからない」のと「それはない」のは、似てるけど全然ちがうんじゃないのかな、ということです。
なんつか、この人のどこが素敵なのか分からない。でも友達は、すごくこの人が好きみたい。
で、そのときに「それはない」って言っちまったら・・・ 戦争だろうがっ・・・! って思うんですが、どうですか。
どうして、この人がイエス・キリストを信じているのか分からない。でも、友達はすごく信仰心が厚いみたい。
で、そのときに「それはない」って言っちまったら・・・ 宗教戦争だろうがっ・・・!! って思う。
たとえは大きいけど、そういう問題じゃないかなー と、思う。
「ない」って言われても、「ある」ので、困ります、しかも、「ある」ことを、否定することができません・・・ という部分に関しては、まさに、そういう問題なんじゃないだろうか。
そしてそれは、セクシュアリティの取り扱いに似ている。
いくら、同性を好きになる気持ちを、「ない」って言われても。私の中には「ある」ので、そして、それが「ある」ということが「私」なので、「ない」と言われても困ります。傷つきます。・・・ そういう問題だと思う。