ふたたび、「と」を入れるのか、入れないのか



「と」をはさむ話からだいぶ回ったけれども、
「と」を挟まないと、自分の内実を表現できていないような気がするという感情は、この「やおい」への馴染まなさに発しているような気がする。
それがもとで、腐女子の友人に随分責められたこともある。「AB」記法を使い、「AとBの濃い関係」の話をしていて、やおいとはちょっと違うと言われるのは許せない、やおいを馬鹿にしているのかお前は、というのが彼女の批判だった。たしかに、そう感じる人もあるだろう。
やおいかどうか、というのは究極的には受け手の決めることのようにも思うから、やおいでない、という線引きを発信者から行なうのもおかしいだろう。だが、「では、それはやおいということにしろ」と他者から要請されるのも、一方ではおかしい話なのだ。


個人の中での「やおい」と、共同幻想の中での「やおい」は常に違っている。あなたの「やおい」と、わたしの「やおい」も、常に食い違っている。それは、きっと、「腐女子」を代入しても同じことだろう。
そのように、諸相の食い違っている中で、自分の萌え商標を提示するときに、挟まれる「と」は何を表しているか。
どうして、「と」をはさまなければいけないか。
そのことが私には、とても興味深い。
もうひとつ興味深いことは、そのように私を批判した腐女子の友人が、いまはどうも、「と」を挟みたい二者を抱えているらしいことだ。いわく、ふたりが恋愛なりセックスなりにならなくても、ただ仲良くしているだけで幸せ。
それは、かつて私が、Lと局長に対して思っていたこと、主張していたことと、まったく同じことだ。
それでいいのなら、私は、ここまで苦しまなかったと思う。
かつて、「それ」を「やおい」の列に入れないということで、私は、非難されたのではなかったか。
ある程度の時間が経って、どう心理の変化があったのか、それとも本当は心理の変化などはなくて、ただ言葉が足りないだけのことだったのか、友人の思うところを、聞いてみたいと思っている。