同人と「意味」の創設〜ヤスレンに寄せて


「NANA」ではレイラとタクミの間柄が好きだったのですが、
レイラのタクミ熱がぐっと下がってシンちゃんに行ってしまったので、ちょっと、うまみがなくなりました。
そして、レイラとレンもいいと思います。
あと、当たり前ですがヤスレンね、ヤスレン。ハチクロの森田兄弟と同じく、ヤスレンは、世が世なら(世というか掲載誌というか)王道だったと思います。どうしてみんながヤスレンに走らないのか不思議ですが、しかし、自分でも全く「書こう!」という気は起こらないのだった。題材的にはそうとうおいしいのに… と、いつも、自分で自分がいぶかしい。


どうして、原作が少女漫画の場合、「男×男」の二次創作が生まれづらいのか。
いろいろ考えるわけですが、
思うこととしては、少年漫画の場合、キャラには、バトルとか試合とかの「戦い」という表舞台があって、それがお話のメインテーマになっているわけですよね。全てはその「戦い」に収斂されていくので、そのキャラの私的な領域、過去とか、心理面とか、生育歴とか、心のトキメキとか、誰それとの確執とか、そういうものは中心円の一つ外にあるというか、サブ的に、脇に置かれているわけですよね。メインの「戦い」に比べて、相対的に、重要度が低くなるというか、「味付け」的に機能して、ここぞというところで引っ張り出されてきたり、通奏低音のようにして、さりげなく、味を添えたりする。
でも、少女漫画の場合、キャラのそういう「私的な領域」というのも、全部ひっくるめて「メインテーマ」というか。
それは、少女漫画のテーマが「戦い」でなく、恋愛・人間関係だから、キャラを彩る事柄の諸々は、同じメインの土俵の中に上がってきてしまう。
そうなると、どうしても、妄想の余地がなくなるっていうか。
少年誌だと、そういうのに全然触れてもらえなかったり、チラッとしか出てこなかったりするから、それをアレコレ想像して「こうに違いない…!」的に考えるのがそりゃもう楽しいし、何か別の「意味」を、自分が、作り上げているような気持になってくるんですけど。題材が少女漫画だと、妄想したとしても、それが「原作と大差ない感じ」になってしまう、っていう感じが、する。そんな感じがあって、いかにもおいしそうに見えるヤスレンに萌えれない。
レンが薬をやめたくてもやめられなくって、トイレでラリっててヤスのこと考えてる、とかさ――
そういうのは、こちとらが、妄想でやりたいことですよね…!
少年漫画の同人を探したら、↑のようなシナリオは、必ず、1ジャンルに1つは発見される気がするんですよ。
それを原作でやられちゃあさあ。やることないんだもん。
なんというか、自分が新しい「意味」を、作っているような気がしないと、二次創作には燃えられないんじゃないか、という気がする。それが面白さだし。原動力なんじゃないか。
そう考えると、
「少年漫画」に、女子がこぞって自分だけの「意味」をつけようとするのは面白いし、そのつけられた「意味」、作られた物語が、物凄い濃い「女子性」(男子はこういう話は作らないんじゃないか…というような。「女子が置かれている状況が発生させる何らかの要素」)を帯びているのが面白い。


あまりにも魅力的な作品がそこにあったときに、その作品と、自分との関わりあい方の結果捻り出されて来るのが(それはもう異次元という名の妄想の彼方から・笑)、二次創作で、それは、各人にとっての切実な「仮想」だと思う。
もちろん二次創作の全部がそうだというわけじゃなく、原点はいろいろあると思うけれども、私の場合は、究極的には、これかも。


ともあれ、そのきっかけや、動機がなんであれ、二次創作が、各人にとっての切実な仮想だというのは、それは、そう言っていいんじゃないかと思う。もう、殆ど、生きる支えと言ってもいいくらいの。それは、形にして表現する・しないを問わずそうだと思う。(頭の中に流れる思いも「二次創作」のうちだと思うし、だから「読み専」のオタクが、「表現している」オタクに比べて劣るとか、そういうことではないと思う)


そんなことを考えながら二次創作的空想を描いたり、同人誌を読んだり、パロディを書いたりしていて、一体、自分はいつになったらこの状態から抜けるのだろうかと思うけれども、それは多分、自分の永遠の病のようにしてずっとあるんだと思う。
それもちょっとしんどいというか… 実生活との折り合い的に、ちょっと困るんだけれども(笑) 一日の時間配分の問題とか。

NANAから、随分遠くに来ましたね(笑)