『NANA』論〜ハチの「空白」と消費、「ふつう」であることの痛み

昨日のテキストでも書いたけれど、
私くらいの年代は、とっても、先行きに対する不安感が強いよね…と感じる。
何かもう、絶望や、諦めから、まず始まっている感がある。
そして、その心の隙間を、圧倒的な商品情報、「広告」が埋めてくる。


自分が「どうにかなる」気がしない。いつも漠然と不安。その不安を、消費が埋めてくれる。
「消費」という形で、社会参加をする。
それが、とくに、若い層の「かたち」になっているのではないかと思います。
「仕事」を介して、「理想的な社会参加」が出来ない場合には、特に、それが強まると思う。


それを、見事に言い当てたのが、『NANA』だったのではないかと思う。


ハチ(小松奈々)は、消費に生きる女の子である。最初の頃は、特にそれが顕著だ。
そのハチが、バイト先をクビになって、街なかの噴水に座ってひとり、缶コーヒーを握り、うなだれてるシーンがある。
ハチはモノローグする。


 のどが渇いたら、110円でコーヒーは飲める。
 でも、私はお洒落なカフェで、お茶をするのが好き。


これほど、真理を言い当ている言葉はないんじゃないか。
何かを「飲む」だけだったら、本当に、缶飲料のコーヒーでいい。でも、「お洒落なカフェでお茶」を、したい。それは、そこにまつわる付加価値、つまり「イメージ」を消費するということ。そして、それを介して、社会に参加する、自分というものを示す、ということ。
そうか、それが「消費」なんだ、と、「わかった!」と、叫びたい思いがした。


ハチは独白を続ける。
旅行がしたい、車の免許がとりたい、最新の携帯に替えたい。
だから働かなきゃ。
「そのためだと思えば楽しいじゃない」


でも、ハチには、「ここから動き出す力さえ」湧いてこない。


私はこの場面がとても好きで、心に突き刺さるシーンだ。
この場面は、
「消費だけでは、人間は生きていけない」ということを、
この上なく端的に、描き出した場面だと思う。それも現代性を持って。
欲しいものが沢山あって、それにお金を遣うために働く。
でも。
「そのためだと思えば楽しいじゃない」と、自分に言い聞かせるハチは、
真剣な顔で唇を噛んで、涙ぐんでいる。いつも能天気で、泣くのも恋愛のことばかり、というハチが、ここで、初めてと言っていいくらいの、真剣な表情を見せる。


そしてハチは、「ナナが羨ましい」と思う。
ナナは、ハチとは正反対で、「自分の野望を実現する」ために生きている。
消費には目もくれず、日々、意思を実行している。
それをハチは「夢」と呼び、それは、とても眩しくハチの目に映っている。
私も、ナナのように「夢」がほしい、なにかに夢中になりたい、とハチは思う。
それは、「なにかを生み出すために、動かすために、作り出すために、夢中になりたい」。そのことへの強い希求だ。
とりわけナナの夢は、「シンガー」というクリエイター、自分を表現しながら、何かを生み出す職業で、その意味でもハチにとっては、眩しく輝いて見える。なにかを「消費してばかり」の自分と、まったく、対極の存在だと。
ハチは自分が、「からっぽ」だと感じる。ナナのような才能も、内に充溢する情熱もない、と。


そんな「ハチ」と「ナナ」とが、無数に混在しているのがこの世の中で、だからこそ『NANA』は、広く、女子に支持されているんだと思う。
無数の「ハチ」の空白を、「消費」の視点から照らし出した。その意味で、『NANA』は稀有な漫画だと思う。
(ちなみに、『ハッピーマニア』は、恋愛の面での「空白」を描いて見せた作品だと思う。)
矢沢あいは、やっぱりすごいよな、と思う。
私は、ナナよりもハチの方にずっとシンパシーを感じていて、
とくにこの場面を境に、ハチのことが、とても好きになった。
自分には才能がない。自分は空っぽだ。その気持はとてもとてもリアルで、ものすごくよく、「わかる」。
その絶望がどれだけ苦しいか。そして、「ナナ」の存在を横目にしながらも、それでもやってかなきゃいけない。それが、どういうことか。
「ふつう」であることの痛みを、『NANA』は描いてみせた。
なんにも生み出せない。買い物をすることが、消費をすることが、「創造的行為」であるところの、ふつうの、「わたし」。
でも、それが、大多数の、「私」の姿なんじゃないかと思う。


漫画家として早くに頭角を現して、トップクリエイターとして走ってきた矢沢あいが、いまリアルに「ハチ」を描いているのは、とても興味深いことだと思う。
(かつてから、『ご近所物語』のバディ子のような、「うまくやれないキャラ」への愛や理解はあって、魅力的なキャラを描いてきたけれども、ハチの造形はもう一段階、奥に進んでいる気がする。)
そして、一見、夢と意志とに溢れ、才能にも恵まれているナナが、決して幸せになっていかないように見えるのは、
「夢だけでは生きていけない」ということをも、同時に、示唆しているように思う。
消費だけでは生きていけない。だけど、夢だけでも生きていけない。
『NANA』のメディアミックスとしての売り方は、どうも、「夢を追い、わたしらしく生きる」ことをメッセージとしていたように見える。映画・音楽の展開では、当然ながら「ミュージシャン」の切り口は大きいし、また、深夜アニメの「NANA」の枠には、専門学校のCMが結構なウエイトで入っていた。そこには、「ナナ的な生き方」を称揚する、という文脈が含まれていた。


けれど、漫画の『NANA』は、必ずしも、「夢を追いかけて生きるナナ」を、称揚すべき価値観として描いてはいない。ナナに憧れ、ほめたたえているのは、あくまでも「ハチ」である。ハチの目に映るナナは、眩しく、素晴らしい。だが、作家の筆には、ナナへの批評性が含まれている。ハチに対しても、ナナに対しても、その目線は平等に注がれている。ふたりは、等価なものとして描かれている。
ナナがメンタルが弱く、レンとの関係(ハチからすると、理想的な恋愛に見える)にも幾多の問題を含み、自らの病理を克服しきれない様子が描かれるのは、「必ずしも、ナナ的なものが素晴らしいというわけではない」という価値観を、作品が内包しているということだと思う。
ハチも情けないが、ナナも、ひとりの弱い者として存在している。


ハチの「ふつう」を描くためには、ナナの眩しい才能が必要だった。
ハチは恋愛命で、情にもろく、だめな子、というキャラクターだけれど、そういうハチが見せるタフさや、眩しさが、私はとても好きだ。
強さという点でいえば、ナナよりもずっと、ハチは強いのではないかという気がする。
ハチの空白が、どのように解決されていくのか、あるいは解決はしないのか、それを、とても楽しみに読んでいた。今のところ、それはどうも「子ども」という帰結に至っているようで、そうか、そこか… と、思わないでもない。
だけど、ハチが本来持っている、パワフルな慈愛のようなもの、愛すべきものを守ろうとする信念の強さからいくと、「子ども」という落としどころは、とても、心性に合っているような気がする。


ここも私の好きな場面だけれど、ハチが、出産のために帰った地元で、ナナの悪口が落書きされているのを見つけて、スプレー缶を買い込んで、それを塗りつぶすシーンがあった。
そのときのハチの顔も、恋愛の場面や、普段作りで見せる可愛さとは変わって、とても真剣な、「本気の表情」をしていた。それは愛らしいとは言いがたい表情で、怖いくらいの真摯さがあって、私は始め、それがハチだと分からなかった。壁にスプレーを吹き付けているカットだったので、「ナナの悪口を書いた本人が、さらに書き足しているのか?」と、思ったほどだ。(恥ずかしい話ですが…!)  それは、言うなら「おとこ前な顔」で、こういう良さを表現するのに「おとこ」という言葉を使うしかないのがなんとかならないのか、とつくづく思うのだが、適する語彙が他にない。とにかく、それは「真剣な人間の顔」で、とても、胸うたれる表情だった。
そのようにハチは、何かを守ろうとするとき、ものすごい力を発揮する人間である。その愛情の深さが、ナナの才能と、等価に評価されているのが、『NANA』の世界だと思う。
非常に「ふつう」で、輝かしい才能があるわけでなく(私は個人的には、ハチには料理の才能があると思う)、普通に「女の幸せ」を求めて、しかもプチセレブ志向で、夫の潤沢な収入で何不自由なく暮らす。それは、社会に自己を立てて、自立して生きるんだ、という価値観からすれば、まったく「だめ」なものなのかもしれない。
だけど、身近な人間を思いきり愛して、自分の適性で幸せを構築していく生き方も、それはそれで「良い」と、『NANA』の世界は、肯定をしているように思える。


これまでの矢沢作品の落としどころとして、最後は「夢に即する」というかたちが出てきていた。
天使なんかじゃない』では、翠はしっかり美術の教師になるし、『ご近所物語』はもっと顕著で、実果子は自分の夢のために、ツトムと離れて英国に留学する。「ご近所」の続編の『パラダイス・キス』では、主人公の紫はやはり、モデルの仕事を続けるため、留学する譲二と別れる決心をする。
これら三作品では、「社会的自立と絡んでの自己実現」が、みな、キーとなっていた。
けれども『NANA』で、ハチが「子ども」を選び、「家族を作っていくこと」を自分のやりたい事として据えて、そこに向かっていくのは、矢沢あいの世界においては或る意味「画期的」なことで、新たな広がりであると思う。
そして、夢を追いかけるナナが、おそらくその夢に挫折を強いられていくこと、まだ先は描かれていないけれども、ストレートな「成功」はないだろうことを考えると、『NANA』が一体どんな場所に向かっていくのか、とても楽しみなところである。


私の個人の希望では、最後はナナとハチとが、ちゃんともう一度出会って、対話をしてくれるといいな、と、祈る気持で思っている。