「同人」というコミュニケーション

同人サイトのWEB拍手で頂いて、嬉しい言葉。

「私はこれまで○△でしたが、貴サイトの小説を読んで△○に目覚めました!」
というもの。


これは、うれしい・・・!!!!!

おもわず、PCの前で「うわー、そうですかーー!!!! ありがとうございますーーー!!!!!」と正座して口走ってしまうくらい、嬉しい。
○△、△○というのはカプ(いわゆる)のことで、
「いままで自分は○△派だったが、△○のグルーヴにも回路が開いたよ」と、そういうご報告である。


「面白いです」とか「すばらしいです」とかのもったいないお言葉を越えて、嬉しい。
どうして、これが、これだけが、特別に嬉しいんだろう。
考えてみるに、「伝わった・・・!!!!!」という実感がものすごく嬉しいんだと思う。
自分が、「絶対に、絶対に△○なんだもの。なぜなら・・・・!!!」というパッションを織り込みまくって書いた(というか、そのパッションをインクにして字を書いたような)、その「なぜなら」という部分が通じてくれないと、○△派の人は、△○に「開眼した」とは言ってくれない。
だから、「△○もいいなと思いました」とか「開眼しました」「目覚めました」という言葉は「あなたの言いたいことが分かったよ」の意味をメッセージしている。
その肯定、共感が、涙が出るくらい嬉しい。
それが、私にとっての同人の醍醐味だと思う。


オリジナルをほめられるのとはまた全然違う嬉しさ。
同人の肝は、私は「コミュニケーション」にあると考えている。
それは、チャットをやって、オフ会をやって、お友達を作って・・・ というそういうことではなくて、以前に「創作における模倣の権利とは何か?」で書いたことと通じる、何か魅力あるテキストに接して、内側に沸き起こってくるやむにやまれぬ衝動をシェアしたい、誰かと、分け合いたい、分ってほしい、分ってもらえないまでもこの世に放ちたい、そういう気持ち、ひいては行動のことだ。
だから、書き手としてある程度以上のレベルに達していて、この人はどうしてプロにいかないんだろう? と思わせるような書き手が同人を選び続けるのは、あるいは、プロをやりながら同人を書き続けるのは、オリジナルでは為し得ない形のコミュニケーションを、ずっと、し続けていきたい気持ちのゆえだと思う。


その意味で、オリジナルとは、完全な「コミュニケーション」になりうるのか? という疑問をひとつ持っている。
「私の言いたいこと」が、相手に十全に分かられてそして、共感と熱意のこもったレスポンスがやってくる。その形は、もしかしたら、商業ベースでは起こりえないことなのかもしれない。
それぞれが、お互いの中に「原典」を持ち、並外れた情熱を持っている、その状況の中でしか起こりえないレベルの「理解」があるのだとすれば、そのコミュニケーションを知った者にとって、「なぜオリジナルで書かないの?」という問いは愚問でしかないだろう。それは、「オリジナルが書けない」のではなく、「オリジナルでは書けないから」なのだ。「それがしたいから」、「同人」という位相のテキストを書き続ける。そういうことだと思う。


たとえば、自分自身の中の、ある作品の二次創作の設定について、「そこで書きたかったもの」を抽出し、オリジナルに焼きなおしてみても、そこには、決定的な何かが抜け落ちている。
それは、「あの原作で」夢想していたときには確かに存在した熱、ある意味、命のようなものだ。それにこそ衝き動かされて、愚かなほど調べ物をしたり、構成を練りこんだりした、その、「動機」のようなものだ。
その熱がなんなのかがずっと疑問だった。オリジナルにすると抜け落ちる、同人に戻すと吹き上がってくる、この炎の正体はなんだろう?
それが、ただ物語を綴りたいとか、小説(あるいは漫画)を書きたいというところを越えて、「同人というコミュニケーションがしたい」という動機に発するものなのではないかと、考えるようになった。
「同人」というものの魔力も、また、そこにあるのではないかと思う。