創作における模倣の権利とは何か?


二次創作の、権利関係の規制の流れに関連して。
今回の記事の表題は、私が卒論の題として一回は提出したものの、膨大すぎて結局中断したタイトルである。
小6で同人誌というものを知って、自分でも「同人小説」を書くようになり、大学に上がってから、ずっと、このことを考え続けていた。
創作における、模倣の権利とは何か、と。


大学で文学を習えば習うほど、あるテキストと、後発の作品との影響関係の大きさを思い知る。
私の中にある、「これの同人を書きたいんだ」という衝動と同じものが、ありとある作者たちにとっても、共通のものではないかと考えていた。それはほぼ確信に近く、その熱なくしては、新しい表現というものは生まれてこないのではないか、と思うほどだ。
同人を書く、今の状況なら「二次創作をする」と言い換えた方がこなれるだろうか、ともかく、それらの行為をするということは、「人間が人間であることの所以である」というぐらいに根源的なことなのではないかと、私は考えている。
なんらかの表現に影響を受けて、その感興を、アウトプットしてみたいと思うこと。そこに、自分なりの「意味」をつけて。
それは、人の、根本的な衝動なのではないかと思うのだった。
それは、ほとんど、生きることと同義である。
その昔、芸術は口承であり、また「書き写し」であった。
そのなかで、オリジナルは様々に変容を遂げていく。それは、語り手が、自分なりの調子や意味を付加していくからではないかと思う。ほぼすべての古典にたくさんの「異稿」や「異本」が存在することは、単なる書写に際して生じるぶれということ以外に、それを物語っているように思う。


海外にもパスティーシュの長い伝統があるし、「聖書」はまさに巨大なテキストだ。現代オタクの分野では(さらに、女子オタクの分野では)スラッシュという「二次創作」があったりする。
現代日本においても、同人誌文化、あるいは二次創作文化が隆盛しており、その背景には、本邦における歴史・文化の在り方、その連なりがあるのではないだろうか。人の、あらゆる営みがそうであるように。

そのひとつとして、私は「本歌取り」という、和歌の伝統に着眼したい。
本歌取りとは、和歌の表現形式の一種で、元歌があり、その歌に「つける」形で、自分の新作を提示するというものだ。
そこには、本歌をどのように解釈しているかということ、さらに、それを広げて、どのような意味を付加したか、新たに何を打ち立てたかということが要求される。さらにルールとして、たとえば、元歌が「恋」の歌であったなら、違う部立て(=ジャンル)で歌を作らなければならないということがある。
これは、つくづく、同人誌というものに通じると、短歌雑誌の編集をやりながら、私は、ずっと考えてきたのだった。
そう見ると、女子同人界の「やおい」なり腐女子の解釈というものは、スポーツの部なりバトルの部なりの作品を、ひたすら、しかも同時多発的に無数の人間が、「恋」の部で本歌取りしまくるというもので、それはやはり、特異な現象だといえるだろう。


本歌取り」とまで行かなくても、和歌・短歌には絶えず「寄せる」「つける」という考えがある。それは俳諧にも、あるいは散文の古典にも、すべてに共通するものだ。高校古典の源氏物語の授業で、伊勢物語等の影響を受けているとか、このフレーズは古今集からとっているとか、なんとなく記憶に残っている人もいるかと思う。エッセンスとしては「そういうこと」である。
特定の何物か、自分が感銘を受けたもの、あるいは、衝動を刺激されたものについて、自分なりの解釈をつけて、新しい表現として展開する。
それは日本に限ったものではないかもしれないけれども、この国の文化は特に、その傾向について、独特のものを持っているのではないかと思うのだった。それは単に、コピーということではない。模倣という言葉も少し意味がずれるように思うが、「意味の拡大再生産」ということについて、独特のものが行われてきたのではないかと思うのだった。


息をするよりも自然に、それこそ千年、二千年のスパンで、われわれはそうしたことを行なってきたのではないかと思う。
面白いのは、「本歌取り」には厳正なルールがあって、それは「盗作」とは一線を画していなければならないという理念に集約される。歌人は、素晴らしい本歌取り、あるいは「よせ」「つけ」をものすることに命を砕き、しかしながら、それが「盗作」とそしられることをなによりも恐れた。ある名歌人が、「回心の本歌取りができたのだが、これは、本歌に『つき』すぎているだろうか。盗作とみられてしまうだろうか。自分では判断がつかない。ぜひ、信頼するあなたの意見を伺いたい」と、朋友に相談したケースが記録に残っている。(おそらくは、とても神妙な顔で、ひっそりと。) 
そのくらい、オリジナルとコピーということは厳正に分たれていたし、それらは、表現者たちの中で、自発的に運用され、切磋琢磨の中で進化していったのだった。


こうして過去のケースに触れれば触れるほど、今の私のいる、同人誌あるいは二次創作のフィールドと、共通する部分の多いことに驚くのだった。こうしたエッセンスは、時代を変えても、我々の中に「ふつうに」残り、状況を変えて、今に現出している。
人間の中には、根本的に「本歌取りしたい」という欲求があるのではないだろうか。欲求というと利己的な響きだが、それはもっと、人が人であることに根ざした、根源的な衝動ではないかと思う。
それは、感銘を受けた何ものか、自分の心を動かしたなにものかについて、自分なりの解釈をのせて、新しい形で表現したいという衝動だ。その考えを、外に、世の中に提出したい。自分の外に、「自分がこう思った」「こう感じた」ということを提出したい。それは、自分が、生きているということと同義のことである。――そうした衝動であり、行動ではないかと思う。
それは、とても「自然」で、根源的なものなのではないかと、私には思えるのだった。


さて平安、近世(もしかしたら江戸も)の時代はそれでよかった。では、現代と何が違っているのかといえば、いま「表現」は「権利」と結びつき、著しくビジネスになっているということである。
近代、そして現代において、「表現」は権利にくるまれた「商品」である。そこに、過去との最大の違いがあり、断絶があるのだった。
近現代において(それはここ百年程度ということだ)、「表現」というものの位相が、社会の中で大きく変わった。それによって「作者」が生活していけるようになり、また、遥かに自由な表現が可能になったのだから、不可欠かつ有意な変革ではあっただろう。


けれども、人間の心は、そうは変わらない。


私たちの中に綿々と受け継がれ、そして水を得た時に、熱を吹き返すDNAは、そうたやすく変わることはないのだった。
かつてそれが「悪いこと」とも思わず、むしろ知的な、あるいは生的な感興として、行なってきた「本歌取り」的な行為。自分の解釈を付加した、「意味」の、拡大再生産ということ。それらの行為が私たちの文化を形作り、目に見えないほど深く細かく、生活、そしておそらくは風土、肉体に組み込まれている。
だから誰に頼まれたわけでもないのに「自然に」、「それ」を行なってしまうということと、「それは違法なのである」という法的現実との間に、断絶が生じるのだった。
その落差は、いま「取り締まる側」が考えている以上に、はるかに大きく、複雑なものであるように思う。
法的に考えれば「著作権の侵害」で、それはたしかにその通りなのだが、しかし「それだけのもの」なのだろうか? という思いが、ポケモン事件のあたりから、私には、ずっとしているのだった。
取り締まる側と、取り締まられる側(それはつまり私のことだ)が、話の次元なり、根本を、共有できていないように感じるのだった。
もし、たとえそのような齟齬があっても、法のもとに、「法的な考え方」に基づいて規制を推し進めていくのだという考え方はありうる。何よりも、前提として、この国は法治国家なのだ。それに、たとえ取り締まられる側であっても、個人の「気持ち」とか、そうした「やわらかい部分」を考慮してくれというのは甘えだ、と、主張する人もいるだろう。(私見だが、なんとなく、沢山いるような気がする)
もしそうなっていくならば、個人の内実との齟齬や、乖離は、今後、さらに急速に拡大していくだろう。


著作物の権利は守られなければならない。それは最大の前提である。
けれども、すべての人間には、模倣する権利がある。
すべての表現が模倣から始まるのならば、創作において、表現において、模倣する権利もまた、不可欠のものではないのだろうか。
二次創作を権利の観点から取り締まる。それは、結果として、表現を痩せさせるように思えてならない。
ある表現から強烈な感興を受けたとして、それを「表現」として提出することが、本当に罪なことなのだろうか。
二次創作を取り締まる環境は、一つは著作権など、権利の侵害の観点、さらに、有害図書の規制といった、倫理の観点、その二つがあるように思う。法的、あるいは条例的な、二本の線で、表現行動というとりとめのない領域を区画しようというアプローチが、現状であるように思う。その中にいる人間の実際は分からないので(あるいは、斟酌するものでもないので)、具体的なラインでもって線を引くのだという、そのアプローチは或る意味、実際的なものなのかもしれない。社会に生きて、他人に影響を与えている以上、一定の規則に従うのは当然のことだと思う。生的な根源的な表現欲求だから、二次創作は無法地帯でいていいのだ、などとは思わないし、倫理のコードについては、私は、厳しく線引きをするべきだと思う。
けれども、著作物の「権利」という観点での規制を推し進めるならば、受け手の側の模倣の権利にもまた、いささかでも斟酌を加えてほしい。


著作物の権利を侵害したいと思って二次創作をしている人間は、きっと、大勢ではないだろう。
性善説に基づく考えだけれども、おそらく大多数が原作者(ひいては権利者)をリスペクトしている。
もうけは二の次、という言説には一部疑問を感じるけれども、それでも、利益目当ての人間は全体で見れば、そう多くはないだろう。
自分自身の根源をなすかのような、この「行動」が、著作者の権利と抵触せずに済む方法はないのだろうかとずっと考えていた。
私が思ったのは、たとえば、二次創作を行なうにあたって、作者に一定の使用料を支払うとか。そのくらいはむしろ当然と考えていて、率先して支払わせて頂きたい、と思うのだが、しかし、そうやって申告制にすれば、絶えず「検閲」の問題がついて回るのだし、スキーム化することはほぼ不可能だろう。そのようにガラス張りにしてしまったときに、今の坩堝のようなエネルギーは、すっかり変質してしまうのではないか、という危惧もある。


個人的には、体制に監督されない表現の場があって、それがある程度の自浄作用のもとに存続できているということ自体が財産ではないかと思う。だから、いまのままノータッチでいてもらいたいという気持ちも強い。
けれども、権利を侵害している側、取り締まられる側の私にも、このままでいていいとは思わない、という気持はあるのだった。
こちらも「やること」をやって、そして、模倣の権利が行使できるのなら、それほど良いことはない。
そんなに簡単にはいかないと、よく、分かってはいるのだけれども。