書き手 > 読み手  なのか??

本当に、「読んでくれる人」の存在って、ものすごく大きい。


よく、同人界には(といって、女子同人界しか知らんのですけど)、
「『活動』してなければオタクとして存在価値が低い」みたいな価値観がありますよね。
てか、「活動」て… 一昔前の「無政府主義者」ワールドですかっ? とちょっと可笑しいんだけど(「活動」してこそ同志と認められる、的な…  笑)
いわく、「読み専」より「描き手(書き手)」の方が上とか。
本を出して初めて、「好きだ」と認められる、「好きな人間」の列に入れる、とか。
「同人サイトをやってないから、あの人は腐女子(ここでの意味合い:一人前のオタク)じゃない」って陰で言われていたこともある。いくらなんでも、その論理は飛躍しすぎだろう、って思うんだけど、その土台にある価値観が何なのかは認識できる。

書き手 > 読み手

っていう価値観が、ありますわよね。


その、
「『活動』してなければ、オタクとして劣位である」という考えについて、
「どう思う?」って、19歳の時からのオタク友達と話していたときに、
彼女が言った言葉が、すばらしかった。
彼女いわく、


「同人は、書かれたものを汲み取ってくれる人がいて、成り立つものだよね。
 すごい作品、っていうけど、本当は、それを読んで感動するっていうことは、
 読んだ人のなかに、『それだけのものがある』っていうことだと思うのね。
 むしろ、そう受けとめられることが、『すごい』んだと思う」


そうだよな、本当、そうだよな… と、思ったわけです。
この人、こんなことを考えていたんだ…! って、ちょっと泣きそうになった。


「読み手」がいてくれるから、或るジャンルにおける、解釈の、巨大な「無意識」のネットが、拡大再生産されていくわけで、その巨大なプールがなかったら、われわれの考えはきっと、とてつもなく痩せたものになる。
「情報の真空地帯にオリジナルは存在しない」って、上野千鶴子氏は言ったけど、それは、全てにおいて、本当にそうだと思う。だから、度を越して「パクリ」なり「盗作」に過敏になったり、同人ネタの「オリジナル性」を妙に囲い込んでいくのは、どうなんだろうな、と思う。


元ネタとして、同一の作品があって、それについての、解釈の巨大なプールを、われわれは共有している。
無意識を汲み上げる海を。
そこから生まれてくるものに、ある種の共時性が含まれていたとしても、何も不思議ではない。


そして、二次創作という意味合いでの「表現」をしていなかったとしても、
「読み手」も、その海を一緒に持っていることに疑いはないと思うわけです。