「やおい」と「ドリーム小説」

友人から先日の「ひろ→しげ」へのレスに加え、「銀しげ」も反応をもらい、
とても嬉しくなっております。某さん、ありがとうございます。存分に語りましょう。
私も、いろんな人のしげる語り、天語りなどなどを読むと、本気に、心が温まる。
私にはこれが、確実に、人生の喜びのひとつ。
だから同人が好きだし、楽しいことばかりじゃないけど、離れていくことができない。


人と「好き」の方向でけんかになったり、そもそもの方向性が違いすぎたり、「違う」ってことは本当は問題じゃないはずなのに、その「違い」が、関係の中で、だんだんと癌になっていったり。
「好き」なことがそれぞれ「違う」のは当たり前なのに、「違う」「違う」って言われ続けると、やっぱり心が冷える。
モア・ベターなやり方はないか? とずっと考えていた。
結局それは、どうにも無理だったわけだけど、その分、同人って何、みたいなことを、よくよく、考えさせられた。


私が思うのは、「カイジ」の「黙示録」の鉄骨渡りの話で出てきた、「通信」みたいなこと。
(別に、福本に嵌ったから言うってわけじゃないですが・笑)
「だから打とうっ!」「今、ここに在るのだからっ!」 という、あのくだりは、「ああ、これ、同人にあてはまる…!」っと、ものすごく思った。千人いたら千人の「同人」があると思うけど、作品に接して、心に沸き起こってくる想念、派生して生まれ出てくる想像、
それを、「分から」なくてもいい。ただ、「在る」ことを認めてほしい、それだけ。
「認める」より、「ゆるす」と言い換えてもいい。
分かってくれなくてもいい。賛成じゃなくてもいい。でも、「在る」ことをゆるしてほしい。否定しないでほしい。それだけ。



そして、人にそう求めるからには、人にも、そのようにしたいと思う。
でもそれはすごく難しいことで、
なかなか、うまくはいかない。
「人は人で、自分は自分で」って誰もが言い、そして協調を…と、きっとみんなが思っている。
でも、現実は遠くかけはなれたことだ。


トラブルは、同人のカルチャーが分からない(というか、知らない・不案内な)方向からくることもある。
そればかりか(いや、むしろ、それ以上に)、同じ「女性向け同人誌」のカルチャーの中でさえも軋轢はある。むしろ、そっちの方が、ヘヴィーな気さえする。



過去、「腐女子」を任じる知り合いが募った、「ドリーム小説をどう思うか?」のサーベイ(?)みたいなものに加わったことがあった。ドリーム小説を読んでみて、どう思ったかの感想を送り、それをホストがテキストにまとめるのだ。
私はそれまでドリーム小説を読んだことはなかったけど、読んでみるとけっこういけた。というか、かなりいけた。今でも好きである。自分が日頃行っている空想やふくらまし、それから、綴っている同人小説と、そう遠くにあるものとは思わなかった。
なので、「(ドリーム小説を)楽しめる。自分では書けないけれども、全くアリ」と書いて送った。
私は単に、好き・きらいとか、受けつける・受けつけられないという所感を軸に、話は推移していくのだろうと思っていた。
でも、アップされた結果は、私の予想を大きく裏切っていた。


そのサーベイ企画への参加者は、全員が同人書きだった。4人のうち、私以外は全員同人サイトを持ち、男男カプの二次創作を発表していた。私はそのときサイトを持っていなかったが、作品未満のパロディをぽそぽそと書いていた。つまり、全員が「その筋」、「同人筋」の人間だったわけだ。
だから、というのか、なんというのか、無意識に信頼しているところがあった。
だけど、そこに書き出された答えには、愕然とさせられるものがあった。
手放しぎみに「ドリーム小説OK」なのは私ひとりだった。それはいい。それは、全く問題ではない。問題なのはその次である。
ドリーム小説不可・条件つきだがおおむね不可」の多数派は、


・内容がご都合主義
・というか、ありえない
・キャラクターを勝手に矮小化している(ヒロインに沿わせることで)


と言い、いわく、


腐女子にはもっとゆずれないものがあって
ドリーム小説にはそれがない


というのである。
そして、


・怖い
・気持ちが悪い


という言葉が続く。


これは何? と、本当に呆然とした。
発言者たちは、「ドリーム小説」を、同じ「同人」、「二次創作」としてすら、とらえてはいないように感じた。まるで「違うもの」と見ていると。
レポートにひしめく幾多の言葉が、その意識を描き出していた。
ドリーム小説」は、腐女子の書く「二次創作」にしてみたら、作品として、格下の未熟なもの、「ゆずれないもの」のない、ポリシーの足らないものだと。
ヒロインを仕立てて、都合よくキャラクターを沿わせるドリーム小説より、
既存のキャラ同士で描くカップリング二次創作の方が、高尚で、程度の高いものだと。
その「意識」がびしびし伝わってくる。


とてもショックだった。
「ゆずれないもの」、そんなもの、ドリーム小説にだってあるよ。
そして、もし仮にそれが感じ取れなかったからといって、なぜ、非難されなければならないのか。
作品の上手とか下手とか、そういうのはある。「ひどいなあこれ…」と思うようなテキストもある。
でも、「そうやって、そのテキストを書いたこと、その事実、その気持ち」それ自体が、「ゆずれないもの」じゃないのか? なぜ、そうとらえないんだろう。
それは、ドリーム小説だって、既存のキャラ同士のパロディだって、作品のうまい下手を超えて全く等価なものだ。
そして、「ゆずれないもの」があったからって、偉くもなんともない。
なくたってかまわない。
「楽しいから」「書きたいから」それを書く、それでいいはず。何も、問題なんかないはずだ。
その、究極の楽しみを、否定することは誰にもできない。


カップリング二次創作ってそんなに偉いのか、と、思ってしまった。そのとき。
ドリーム小説は、オリジナルの主人公を設定している分、「妄想している事実」について、逃げ隠れができない。一枚余分に服を脱いでいるようなものだ。その「おかしさ」「異常さ」みたいなことをつつかれたら、それも、同じパロディを書いている人たち、しかもエロも込みのパロを書いている人たちからつつかれたら、もう、どうしたらいいんだろう。こんなにひどいことってない。
同じ、同人サイトを持ち、パロディを書いている人から、「気持ち悪い」と言われ「怖い」と言われ、「ゆずれないものがない」などといわれる。
いたたまれない話だ。
殆ど、ありえないくらいに、嫌で、感じの悪い話だ。


つつかれても、カップリング二次創作には、まだ、関係性が、とかキャラクターが、とか言って「逃げ」られる。余白がある。大勢がやっているし、市民権を得つつあることだし。すでにマーケットですらある。
でも、ドリーム小説は、より抜き差しがならない。
作中の「わたし(あるいは、変換可能な名前)」=「作者」ではなかったとしても、より「イタい」という感じ、よけいに内臓をさらしているという感じからは、きっと逃れることができない。
たぶん、それを感じながら、きっと、書く人たちは書いている。
それでもなお書きたいと思っている。
それは「ゆずれないもの」とは違うんだろうか?
私は先に「自分じゃ(ドリーム小説は)書かない」と書いたけれど、
それは、自分のチキンさゆえ、怯懦な羞恥心ゆえだと自覚する。
キャラクターにまつわる妄想や空想のあれこれについて、「既存のキャラ」という隠れ蓑も使わず、抜き差しならなく、衆目に晒すこと。たとえ匿名でも、ためらう。恥ずかしいと思う。
それを行なったから、偉いというわけでもなんでもないが、果敢であることは確かだと思う。
ドリーム小説を楽しんでいて、読みたいと思い、けれども「自分では書かない」私に引き比べてみたら、はるかに潔い。
(例に使ってしまって恐縮だけど)『銀と金』の1巻で、「親を殺したその後で、まだ愛されるに足る人間だと思いたいのよ」という銀さんのセリフで「あ痛!」と思ったのだけれど、
私なんかは、要するに、
「キャラクターで妄想をしたその後で、まだ自分はそれほどでもないって思いたいのよ」ということにでもなるだろうか。


でも、そういう「退路」ってきっと、みんなどこかに持っているだろう。
私は、オタク趣味を隠していないし、日陰なつもりは全然なくて、このブログでも萌えのことばっかり言ってるように、すっかり、自分をそうアイデンティファイしている。でも、そうしていてすらも、架空の存在を愛しすぎているということについて、どこか忸怩たる思いはあるものだ。それは、どうしたって拭えない、いわば心理面のバラスト(バランスをとるための重り)だと思う。
少し話が膨らんだけれど、カップリング二次創作書きからのドリーム小説への過剰な忌避、気持ち悪いとかそういう言葉には、同族嫌悪のもうちょっとひねったような、その「退路を確保する」とでもいうような感情が、絡んでいなくもないように思う。(聞けば、「違う」と言われるかもしれないけど)
ドリーム小説を書く、ということが、何か、すごく異境へ越えたように感じられるのだろうか。
少なくとも、「理解できない」と思う人間の目から見れば、おのれの中の「何か」を越えた行為であるとは言えるだろう。ありえなく見え、奇異にも映ることだろう。
だけど、「越えて」いるからといって、クリーチャーでもなんでもない。
単に、同じ「パロディ書き」だということだ。
ドリーム小説は、カップリングとか健全とかの他のパロディと、対置されるべき存在でもなんでもない。過去に、この試みのホストに、フォーラムでのドリーム小説の扱いについて、異議を伝えたことがあった。そのとき、「あなたがドリ側の人間とは思っていなかった」と言われた。そういうことじゃないだろう、と思う。「ドリ側」。「~~側」ってなんだろう。私は、全然、ドリーム小説と他のパロディは対立項じゃないと思うし、「側」とか、そういう話じゃないと思う。かえって、そうやって区切りを引いて、カップリング二次創作(その場では、≒腐女子)と対置させられ、「ありえない」「読めない」などと言わずもがなのことを言われ、くさされることこそ、される側にしてみたらいたたまれない話だ。向うの興趣のために、傷つけられ損である。そして、そうやって言い放題に言ってはいても、人の考えなど時と共に移り変わっていってしまうから、そうなれば、そもそもが何だったんだということになり、けなされた方には、いよいよ、何がなにやらという話である。