萌えとセクシャリティ、ハラスメントについて

(前項に引き続いて、)線を引くように、区切りをつけるように、いろいろの条件を吟味していくかのように、好きなものを語ってもしかたがないのだと思う。
それに、萌えや、同人の問題は、趣味論とか創作態度論とかいう以上に、もっと、セクシュアリティの問題だと思う。ものすごく深く、これが食い込んでいるので、ひとつひとつの事象が、いきなり、全人格レベルの問題になってしまう。ものすごく、大きく響くというか。
たとえば、「友達のカプが理解できない」とか、本当、こんなことどうでもいいことのはずなのに(笑)、それが、とんでもない万里の河のように思えてしまうのも、その差異が、「セクシュアリティ」という個人の根幹に根ざして、それを揺るがしてくるからだろう。
だから、同人のトラブルは、しばしば、血を見るんじゃないかという気がしている。
なぜ、同人のことでもめると、非常にヒステリックになるか。なぜ、いわゆる腐とか、やおいとかの話をするときに、(マジになればなるほど)すごく頭の悪い感じになってしまうのか(今もだけど)、すごく不思議だった。
今は、それが、セクシュアリティの問題だからだ、という気がしている。
セクシュアリティの問題ということは、つまり、個々人にとって、「あとがない」問題だということだ。それこそ、毛を逆立てても、守らなければならない問題だということだ。そんな危機感が介在しているような気がする。
個々人の「萌え筋」というものはだから、本当は、とてもデリケートな問題だ。
外部の人(笑)のみならず、たとえ同じオタク仲間同士であってすらも、人の「萌え筋」を取りざたしたり、「お前は腐女子なのかどうか」みたいな、問い詰めはしてほしくない。嫌だし、不毛だと思う。言ったほうは良くても、言われたほうは、ものすごく困り、立ち尽くしてしまったりする。言葉にならない、なんともいえない、嫌な思いになる。言葉を失う。
言うならば、それはハラスメントである。オタハラとでも言えばいいのか。
今にして思うと、あの場面、この場面で、「それってオタハラだ」って言えたら、すごく、便利が良かったような。言うにしても、言われるにしても、「そのつもりはないんでしょうけど、オタハラになりつつありますよ」的な物言いがもしあれば、余分な戦闘(大概は、不毛な言葉による論争)を避けられるのではないだろうか? などと、思わないでもない。


しかしながら、そんなことを言ったら、オタハラでない言説などこの世にはあるのだろうか。
自分にとってみて真剣な問題ほど、「分からない」「これは、いかがなものかと思う」などの、アンチ的要素もまた、語りたい事柄として切実になってくる。
でも、きっと、聞いて嫌な人もいるんだろなと思うので、あたりさわりなくおさめようと努力する。けど、いつも「良い」とか「イエス」とばかり言っていて良いのか、という思いにもなる。それが、本当に「自分の言いたいこと」なのか? と。でも、「逆」のこと、「どうかと思う」とか「これはヤだった」とかを書くって、すごくむずかしい。
「そんなつもり」が全然なくて、「A」という事柄をナイーヴに褒めちぎったら、そこから敷衍して、「では、AではないBは、一切認めないっていうことか!」と、まるで「人非人」と言わんばかりのメールが来たこともあった。
そんなことがあるにつけ、モア・ベターな書き方というのを、しきりに考えるけれども、なかなか難しい。「ほめ」を書いてすら、先のようなことが起こるので、その逆はさらに難しい。怖いし。
考えるほどがんじがらめになる。でも、より「まし」なやり方を探していけたらと思う。