余談

そう考えてくると、少女漫画の世界で、男性キャラクターのセクシャリティのゆらぎが多く見られることを改めて感じる。少女漫画のお家芸といってもいいかもしれない。たとえ単にファッションとして扱っている作品もあるにせよ、少女漫画はそうした存在を好んで描いている。別段、性意識に対してラジカルであろうとしていない作品の中にも、わりかし珍しくもなく、「このひとのセクシャリティヘテロではないな」「このひとはゲイなんだな」という人物が出てくる。矢沢あいご近所物語』他の如月星次さん、『のだめカンタービレ』の高橋くんもそうだし、本当に枚挙に暇がない。
仮にそれが、ゲイの人に対する勝手な憧れとかミーハー心だったとしても、私は、そのキャラクターが登場してくること、その存在感、それ自体に意味があると思う。登場してこなければ、その描かれ方に対して、批判や違和感を持つことすらもできないと思うからだ。



性的嗜好に特に言及のないキャラクターに対して、自分が、検討する意識すら持たずに「自然に」ヘテロだと認識していたことに、自分自身が驚いた。それはもう、意識野に上ってくるまでもなく「自然に」認識していた。
本当なら、別に、割合として「ゲイ:バイ:ヘテロ=1:1:1」であっても、数字の上だけでいえばおかしくはないはずなのに。
その読みは、テキストでの描き方にも負うところはあると思うけれど、どうなんだろう。このキャラがゲイでもバイでも、違和感なくすんなりとはまる、というようには、殆どの漫画の作品世界は作られていないのではないか。あるいは、作者の意識とはまた別に、作品世界そのものには、本当は、性的志向の幅を許容する幅があるのかもしれない。でも、それを思い描く私の意識そのものが、そこに違和感を覚えてしまう。え、そんな、登場人物がゲイ的とかバイ的な人ばっかりって、おかしくない?不自然じゃん?って思えてしまう。それはあるトリッキーな世界になると思うのだけど、それを「トリッキーな世界」と感じること自体、やっぱり、ある意味で偏見なのだろう。

また、原作に男×男を見出す「読み」は、「そこにある自明のヘテロ認識」を最初から突き崩した読みなのかどうかを考えた。考えてみて、それはやっぱり、「最初からそれを看破してセクシャリティの多様性を批判的に追求する」ということとは、また違うのではないかと思った。やはり前提にはヘテロ認識・ヘテロ読解があり、その一次的な読みを土台にして、自分の二次的テキストを構築していくことに、主眼があるのではないかと思ったからだ。でも、男×男という二次テキストを、自身で構築できるということでは、自分で構築することに抵抗感を覚える私よりもずっと、もしかして、性に対するある偏見や先入観が少ないのかもしれないと感じた。
私自身の、頑迷なる性意識。カップリングのことを考えるといつも、そのことを、痛烈に再確認する。

また、ふと思ったのだけど、「原作のふたりそのものがゲイなのだ、原作そのものが、すでに『そう』なのだ」という「読み」の主張を耳にすることもあるが、それは、自明のものとして存在するヘテロ規範を、その「読み」によって看破していることになるのだろうか。それとも、カップリング眼が発達しすぎて、もはや触れるものすべてをそう読み取ってしまう、ということなのだろうか。同じ結論を主張していても、そこには、とてつもなく大きな開きがあるように思う。多分後者かなあー、と私は思うが、どうなんだろう。



思うまま考えるまま綴りましたが、今後も、よく検討し考察してみなければ、と思います。今日またジャンプを読んでみて、色々と、一概には言い切れないが… と思ったりもしました。
実は、昨日アップしたものを大幅に改稿しました。今現在、自分の思うところがよりきちんと伝わるよう書き直した次第です。ですがまだ、きっと色々、穴や抜けや矛盾、独断専行・誤読があると思います。今後も考えていきたいと思います。読んでくださり、ありがとうございました。それから、昨日の文は、文章としてあまりに拙く、恥ずかしい限りでした。お読みになられた方には、お詫びを申し上げます。



「Lと松田さんが事に及ぶっていうのは、少なくとも自分で書くのは、なんだか抵抗あるなあ〜」から始まった思考だったのに、自身のこんな偏見に思いが至るとは、不思議な気持ちです。でも今日私の目から落ちたうろこはとても大きかった。
こういうことがあるから、自分痛いなあと思っていても、何か作品にはまり込んだり色々想像を逞しくしたり、ああでもない、こうでもないと、行間を考えたりいっそ自分の解釈を作り上げてしまったりするのは、やめられません。そうやって自分自身を築いてきたようにも思う。
もしかしたら他の多くの人にとっては、とっくに気が付いていたり、取るに足らなかったり、トートロジーめいていたり、する考えかもしれないと思う。でも、少なくとも私にとっては、とても大きな気がつきだった。それだけでも休みを返上して京都へ出張した甲斐があったと思います。
やっぱり、自分は、まだまだ偏見のかたまりだ、と思った。そうでなくなる日など、来ないとは分っているけど、だからこそ自分が偏見に満ち満ちていることを自覚したい。そして、できるだけそれを減らしていくように、多くの目を持てるように、これからもっともっと努力していかなければと思う。