湊かなえ「告白」

読んだ。
いわば、読後感最悪の「藪の中」。
教師森口の語り口の章は良いけど、他の章は文体がダレたり、ほころびてきてるなと感じて、やや気恥ずかしくなったりもした。


さて、思うのは、「果たして、この小説を読んで、明日もまた生きていこうと思えるかどうか」ということ。
私なら、思えない。
確かに面白い。読み進められる。だけど、何が、心のなかに残るだろうか?


たとえば、読んだあと、足腰がたたないほど打ちのめされて、あるいは、逆に全然わけがわからなくって、でも読み通してしまって、翌日、「ああっ…!」という塊を抱えて脱け殻のようになって会社に行くときに、小説から、生きていく力を受け取っていると思う。
自分の中身を使って考えさせられること。内面が引き出されること。それが、読む行為と自分の生とが交差するということならば、この小説にはそれがなかった。


なんでだろうと考えた。
ひとつには、きれいすぎた。暗いものを扱っていながら、きれいすぎた。
もしかして、こういうものを書けることが、また享受できることが、「幸せ」ということなのかもしれない、と考えた。
臨場感はあるがリアリティがなかった。作者はなぜ、これを書きたかったんだろう。読む人にとことん嫌な思いをさせたかった。それならば、この小説は成功だと思う。


ふたつめは、三章あたりから、この書き手は「母性」というものを信奉しているというか、そこに立脚して書いているのではないか、と思えてきたこと。それが過信にすら感じられ、妙に、女の立ち位置から、「世界」を描いているように思えてきた。第一章の語り手・森口は中年の母親なのだが、その価値観が、章を変え、語り手を変えても、ずっと継続して後ろで煙っているように思えた。それが、嘘くさかった。子供って、こうなんだっけ? 中学生って、本当に、こうなんだっけ? と、途中途中で思った。
中学生の心の闇(という言葉で言い切れない「心の闇」)を描いているのだと標榜しつつ、その実、大人から見た「子供」、親から見た「子供」、母から見た「子供」を書いている。それが、「子供」自身が語り手のパートであったとしても。


私は、作者が、この作品で「中学生」を描いたのは卑怯だったと思う。もしこうした試みがやりたいのなら、自分と同じ、「大人」の、話を書けばよかったのだ。その殺人と復讐の闇に、向き合えばよかったと思う。「大人目線」で作りあげた「子供」を、書いたりするくらいなら。
人の悪を描き出したいならば、まず大人の悪を先に描くべきだ。「中学生」という便利な年代を使い、彼らにそれを負わせるのは卑怯だ。なるほど、中学生にも、当然それはある。だけど、その前に大人はどうなんだ。最初に問うべきは、あるいは、同列に問うべきは、そこなんじゃないかという気がする。
もしも、どうしても「中学生」でそれが書きたいのだというのなら、中学生という年代をもっと、全人的に見るまなざしが必要だと思う。上から大人の目で見るのでなく、同じスケールで、あるいは地面から、見なければならないと思う。そうすれば、「母」への帰結にはならなかったのではないかと思う。


この小説から学べることは、「情報を出す順番」である。事件の時系列に対して、どのような入れ替え、また、情報を開示する・しないの判断を行なっていけば、スリリングな構成を作ることが出来るのか。
すぐにでも役立つ技術だと思う。
だからといって、さあもう一回読み返そう、という気持になかなかなれないのが、困ったところではある。