「ヘテロセクシャル刷り込み」(大幅改稿)

今日はいろいろとLさんのセクシーな部分について妄想がでてきてしまい困りました。
この場合、たとえばダーマツを絡めてみてもいいんだけど、(L松田どこか惹かれるので)、どうも、男性同士の絡みという方向に、自然に思考を進めることが出来ません。
意味深な雰囲気になって何かお互い「・・・」という性的な沈黙を抱き、ああどうしよう何をやっているんだろう俺はどうしちゃったんだろう何か不思議な情動に衝き動かされてあるべき軌道から自分が逸れて、ああ、ああ、・・・みたいな展開になる、ここまでは、考えが進む。
でも、二人抱き合ってみたり触れてみたりして、その後。
その後が、どうしても、考えが続かない。
[前段]→[行為] この、二つの間に橋がかからない。
雰囲気やなし崩しでは、男同士は、そう簡単には交渉に及べないのではないかと思ってしまう。女子とだったら、引っかかりなく、その先にいくのを描ける。しかし、男同士だったらそこに、なにか、非常に特別なもの、言えば決意のようなものが、なければならないのではないかと。そうでないのなら嘘くさいというか、不自然なのではないかと。

これは、ある種の偏見なのだろうかと、帰路、ふと思いました。

そのキャラクターの性嗜好のなかに、同性愛への親和性が存在するということと、自分がゲイ的(あるいはバイ的)な性嗜好を持っているというキャラクター自身の「自覚」の有無とは、関わりがない。自覚はなくとも、そうした親和性・志向性をもっていることはありうる。

たとえば、キャラクター当人が「自分はゲイ的な性嗜好を持っている」という自覚を持っていた場合、作品の中でも、それは「そういうアイデンティティを持っている人物」として描かれる。たとえば『ニューヨーク・ニューヨーク』のケインやメル。『カリフォルニア物語』のイーヴ、アレックス、リロイ。自分で明言するシーンはなかったと思うが『NANA』の銀平ちゃん(ブラストのマネージャー)も、「そのように」描かれている。

で、思った。そういうキャラというのは、始めから、後で分る場合もあるけど、説明を付されて出てくる。この人のセクシャリティは、こうよ、と示されて登場する。彼らは、そのように振る舞い、作品中で、セクシャリティに関して特別な雰囲気を帯びて行動する。『ニューヨーク・ニューヨーク』は漫画そのものがゲイ漫画なので少し事情が異なるが、『カリフォルニア物語』のイーヴ、アレックス、リロイの存在感・作品での影響の及ぼし方は、明らかに、インディアンやブッチ、テレンスのそれとは色彩が違う。
ゲイ的である、ということは、そのキャラにとって、「特筆されるべき情報」なのだ。そのキャラの造形のために、特に描写がさかれるべき要素であり、彼らは、ある種特別なキャラクターといっていい。

では、圧倒的多数である「その他のキャラ」、セクシャリティに関する描写・説明が特に与えられていないキャラクターは、どうなのだろう。

彼らのセクシャリティについては、「何も言われていない」。そして、「何も言われていない」以上、彼らは、「ヘテロセクシャルである」と前提されている。

そのように共通認識されているのではないかと、少なくとも、自分はそのように認識していると、今日、私は、ハッと気が付いたのだった。
「何も言及されていない」=「ヘテロセクシャルである」 この図式、疑うことすらしたことのない、この思い込み。自分の読み方、理解の流れに思い至って、それこそ目からウロコが落ちる思いがした。

本当は、広義のセクシャリティに対して、ひとかけらも情報が与えられていない、などということはない。
後にも触れるが、たとえば少年ジャンプの漫画からは、性的要素が意図的に削り取られている。しかしそのなかでも、たとえば女子とのやりとりでドキッとしたり、ヒロインに恋心を持っていたり、パンチラや谷間チラリに気をとられてみたり、そうした女子への性嗜好の存在は割と多く描かれている。最近では、とみに、お色気導入が進んでもいる。
しかしながら、女性に対する性的嗜好を持っているからといって、男性への性嗜好が存在しない、ということには、ならない。
だが、そうであるのに、いつの間にか、それが「ない」かのように、「ない」ことが自明のことであるかのように、読み取っていっている自分に気が付く。

だれも、そのキャラクターがゲイ的志向を「持ってない」なんて、一言もいっていない。でも、説明がされてない以上、それらしい描写が与えられていない以上、それは、「ヘテロセクシャルだ」ということになる。そのように認識される。それがさも「普通」のことであるかのように。
だがそれは単に「前提」であり「共通認識」にすぎないはずなのだ。そこに疑いを抱き、その「読み・読ませ」の図式に思いを致すことすらないほどに、それは自明のこととして浸透している。恐ろしいほど当たり前の顔をして流通している。その刷り込みに思い至り、今日、少なからずぞっとした。

ジャンプに描き出されているのは、性的要素を意図して削った、「ふつうの男の子」の世界。
でも、だからこそ、「性的嗜好に言及のないキャラ」→「ヘテロセクシャル」という、自明の前提が問題になってくる。
そこに描き出される「ふつうの男の子の世界」、それは、「ヘテロセクシャルの男の子の世界」なのだ。私の目は、「何も言われていない」のに、その世界をそのように読みとる。
そしてその読解は、「普通であること」=「ヘテロセクシャルだ」という意識を、私自身が強く内面化していることを示す。その規範を、自分のものとして、深く受け入れていることを、如実に実証している。だから、私はぞっとする。意識的になっているつもりでいても、まだ、自分自身がこんなにも深く偏見にとらわれていると。そんな、強固な刷り込みの中に、気づきもせず身を沈めていたと。

これは、単に、ゲイ人口に対してヘテロ人口が圧倒的に多数派だから、社会の趨勢を反映して…ということではないと思う。数の多い・少ないの問題ではない。それは、「常識的」「普通」という概念に基づく「価値判断」なのだ。
商業誌たるジャンプは多数派の方に寄り添っているのだ、というようなことではない。そもそも、編集する側・作り手の側に、「ゲイ志向を持つ少年」に届けようという視点は、存在しないのではないだろうか。なぜなら、それは、作り手が想定する「ふつうの」男の子ではないからだ。

考えてみれば、不思議な話だと思う。毎号毎号、おびただしい数の男子達が少年ジャンプには登場しているのに、そのなかに、男性を愛する性的自覚を持ち、リアルに葛藤したり前進したりするキャラクターの顔を、思い浮かべることが出来ない。
いわゆる「おかま(※差別語である)キャラ」というのは出てくる。たとえば『ONE PIECE』のボン・クレーなど。そうしたキャラは、とても特異な、トリッキーな存在として出てくる。
しかし、そうした「特殊な」キャラクターを除けば、主要キャラクター以外の登場人物たちに対する「セクシャリティに関わる描写」はおおむね欠落している。

ジャンプの漫画は「そういう」漫画ではない、ということもあるかとは思う。小学生をターゲットに含む「少年誌」でもあり、男子の性を描くことより、もっと違った、男子の精神の世界、闘い・成長を描いた漫画がジャンプの漫画であり、それが一つの王道としての少年漫画なのだ、ということだとは思う。生身としての性と、ジャンプ漫画の世界とは共存できない、ということだろうか。

しかし、性描写の欠落そのものが、「自動的に」そのキャラが「ヘテロセクシャルであるという認識」へと回収されていくこと、そこには多大なバイアスが作用しているのではないかと思った。
そして、それが、「普通の」男子の世界として描き出され、しかも魅力的に描き出されて、読む側の私もそれを魅力的な世界だと感じていること。そこに、何か、うそ寒さのようなものを感じた。
それは私の目の問題でもある。そして、生み手の側にも、負うところはあるのだと思う。少年漫画、少年誌、という、媒体が含み持つ問題も感じた。