葛藤はない、ただ、開き直りだけがある――『私の男』桜庭一樹

私の男

私の男


言わずと知れた、直木賞受賞作! 『私の男』読みました。
複雑に時系列の入り組んだ小説ですが、かいつまんであらすじを整理すると以下のようになります。
※ネタバレ注意です※  自力で読みたい方は、この先に進まないでください。)
 
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主人公は、腐野花(くさりの・はな)。
物語は、成長した花が結婚を決め、たった一人の肉親・淳吾に婚約者を引き合わせるところから始まる。
この淳吾と花とは、対外的には「血のつながらない親子」という関係だが、ふたりは実は同衾する関係。その関係は、花が淳吾に引き取られた九歳の時点から続いていた。さらに、「血がつながっていない」という認識は、両者の複雑な家族関係に負うものであって、実際には二人は、実の親子である。
淳吾は、はじめから花が実の娘だということを知っており、さらに花も、淳吾と関係をもった始めの頃から、実は自分たちの血がつながっていることに気がついている。

第一話では、結婚した花が新婚旅行から戻ってくると淳吾のアパートがすっかり空になっており、花は、淳吾が自殺をしたことを知らされる。そこから、第二話〜最終話にかけて、二人の謎を明かしていく形で、物語は過去を語り出す。
花は、謎の多い少女時代を過ごす。それは、「父」との秘めたる関係と、それを守るために犯した二つの犯罪ゆえであった。
花は地震で家族全員を亡くし、それゆえ、「遠縁」を名乗る淳吾に引き取られたのだった。淳吾は北海道で海上保安庁に勤務する公務員で、堅い暮らしをしていたのだが、花と肉体関係を持っていることを、地元の名士(淳吾の恩人でもある)に知られてしまう。その人物は、花に、淳吾と離れるよう説得する。花は、淳吾との生活を守りたいために、彼を、流氷の海に置き去りにしてしまうのだった。
その殺人は結局「事故」として片づけられる。ふたりは、それを機に地元を離れ、東京でひっそりと暮らす。しかし、地元の刑事がその事件を追い続けており、ついに花に疑いを抱いて、ふたりのアパートにやってくるのだった。刑事を出迎え、話を聞いた淳吾は、とっさに、その刑事を刺し殺してしまう。
ふたりは、その二つの死を抱え込んで、二人の生活をつづけ、それはやがて、花の結婚、そして淳吾の自殺によって、終幕を迎えるのだった。



この小説、

冒頭 花の結婚、淳吾の自殺
第2話〜  花の過去(少女期、北海道での殺人、東京での殺人)
最終話  花と淳吾の生活の幕開け

という形で、時間をさかのぼっていき、最後に、ふたりが暮らし始めたばかりの時期のことが物語られている。
あらすじを拾っていくとわかるとおり、
「父親」との関係は、そこここで軋轢を巻き起こしていく。
花の少女期を、複雑な、秘密がちなものにする。さらに、その秘密が外に漏れ出てしまうと、当然ながら、ふたりの外の世界の人間は反対し、介入をする。花は、自分たちにとっての当たり前のことを維持するために、秘密を知った人間を殺害しなければならなかった。つまり、ときに他者の死を要請するほどの、余波の巻き起こる関係、衝撃度の強い関係だといえるだろう。


そのような関わりの中にいながら、しかし、花には、葛藤というものがない。
それが、この小説の最大の特徴であると思う。
たった一人の、義理の父親との関係(小説では「養父」という言葉で語られている)、しかも、本当は血のつながっている父親との関係。その「尋常でなさ」は、花自身が、誰よりもよく自覚しているところだ。
しかしながら、花において、その是非について、可否について、葛藤するというプロセスは、全く登場してこない。
むろん花も、多くを悩み、考え、心を苦しめている。しかしそれは、この関係をどう推し進めていくか、ということであって、行きつ戻りつする心理とか、これでいいのであろうかと思い悩む心理であるとかは、まるっきり考えの外なのであった。


だって、わたしは(わたし達は)、こうなんだもの。しょうがないじゃないの。――
全編を貫いている主張は、この一言である。
その意味で、この小説は、非常に現代的であり、ある意味では、21世紀の日本的、であるといえるような気がする。
私は私で、この通りであり、もやはそれは変わることがないのだ、という、図太い開き直りが、この小説には満ち満ちている。
この小説は「近親相姦もの」というあおりで宣伝され認知されているが、この小説のスタンスは、明らかに、これまでの近親相姦ものとは異質なものだろう。
この葛藤のしなさ、分厚く切り開かれた肉塊の断面のような、べろりと赤く、どこまでも続いていく開き直りの境地。
これが、この小説の提示する価値観である。そして、すぐれて娯楽に資するという以上の、文学的価値というものがもし問われるとするなら、それは、このような開き直りの位置どりを提示したということにあるだろう。



私の興味は二つである。


ひとつは、「開き直り」と「ドラマ性」は両立しうるのだろうか、ということ。
もうひとつは、作中で「娘は父の血の人形である」という言葉が、ぶつ切りのまま転がされ、回収されていず、
この「父親」の問題が棚上げにされているということだ。


ひとつめは言葉のとおりであって、
主人公が開き直ってしまえば、こちらは延々と、そのステートメントを聞かされる側に回る。
つまり感情移入をできず、退屈である。
おそらく、近親姦という、性的関心に訴える素材がなければ、この話に最後までつきあうことはできなかっただろう。
途中の爆弾であるはずの二つの殺人事件も、主人公が開き直っているために、深刻さや真実味、またサスペンスの要素が減殺された。どうでもいいこと、に堕してしまった。なぜならば、主人公の中で、それは究極的には「どうでもいいこと」だからである。
作家は、おそらく、過度の期待を込めて殺人事件を投入したわけではないだろう。この読後感は、作家の想定の範囲内にあるのではないかと思われる。だとするならば、この二つの殺人もまた、「主人公の内界」を描くために配された装置という方がしっくりくるだろう。
であれば、ますます、このスタンスの小説と、ドラマ性との両立は難しい。エピソードは主人公の価値観に吸収され、出来事としての外部性、社会性を失っていくからである。
「外部」のないところに、ドラマは生まれない。
それが、この小説を読んで、私の感じとった事柄である。


さらに、もう一つの問題、作中でぶつ切りに提示され、その根拠すら問われることをしない、「血の人形」という言葉である。
この、「こういうタームが、さも、この世には存在する」というような、唐突な提示の仕方には、どこか「エヴァンゲリオン」のそれと似たものを感じた。たとえば綾波レイが、「ゼーレ、魂の座」のなかでいきなり独白をし出し、「血を流さない女」とか「それは魂の、座」とか言ったりするような。単に「血」という言葉の連想ではなく、そこにある空気、スタンスに、符丁するものを感じた。それはつまり、非コミュニケーションの態度、ということだ。そのタームの是非については、受け手とはコミュニケーションをしませんよ、ということである。


エヴァのせりふはそれでよかった。しかしながら、この小説における「血の人形」という言葉をそれで流されてしまうのは、大いに困るところである。
私にはこの言葉の意味が分からない。
淳吾は――淳吾もまた、と言うべきか――複雑な少年期を送っている。母との交渉が少なく、親戚に預けられている間に、花を設けることとなった。曲折を経て、実子・花を引き取ることになった淳吾は、少女の花を「おかあさん」と呼びながら睦み合う。花はそこで、いまだけ、親と子が逆転したような心持、を実感するのだった。
これは最終話において語られる事柄であり、この小説は、それについて、一切の批評を行っていない。
花は、「親と子の間で、しちゃいけないことなんてこの世にあるの?」と問い、父の行ないを完全に受け入れる姿勢を見せる。いわく、娘は父親の「血の人形だから」、である。
花のスタンスは、それでよいのかもしれない。が、小説の全体において、この大きな命題――小説全体を貫く、最大のテーマといえるはずだ――を、批評する目が、必要なのではないだろうか。娘を「おかあさん」となぞらえ、おそらくは、娘の体に詰まっている、己の母親と遺伝子の繋がった血液によって、「血の人形」と呼びならわし、けれども、「母」に行なう行為とは真逆の、性交を行なう「父親」あるいは「巨大な息子」。
この小説のあおりないし売り文句は、タイトルにも象徴されるように「父と娘との近親相姦」で、おもに、娘の父への感情にフォーカスして喧伝されることが多かったように思う。
けれどもこれは、実際には、この「父親」から、その「実の母」へと向かう、ねじれた感情こそが最大の命題になっている。
娘はその過程で、巻き込まれているともいえる。娘にも、そこに順応する「意思」はあった。しかし、それは娘サイドの決断の範疇であって、依然、この父親が、母親へ向かう感情の中に、娘を引き入れたというテーマは残るのである。
この娘には、ある意味で、さして問題はない。語弊はありそうだが、しかし、花は自分の境遇をよしとし、ある意味で誇りすら感じられる。娘については、もはや語られる必要はないだろう。


語られるべきは、この、「父親」についてである。
それを、この小説では、全面肯定とは言わないまでもいわば「不問に付し」てしまい、問いなおすということを、まったく投げてしまった。それが実に不満であり、残念であり、面白い・面白くないという以前に、未完の様相すら感じられる。これでは足りないのではないか? と感じてしまうのは、読後感としては、残念なことだと言わざるをえない。


直木賞を受賞したが、本当に、他の候補作が、娯楽の度合いにおいてこれよりも劣っていたのかどうか、ノミネート作品を読み比べてみたい。