人の世界、魍魎の世界――赤木しげるとアカギ

(『天』ネタバレ前提でお送りします。
  赤木しげる:中年(44〜53)
  アカギ:主に青年(20)  の凡例でどうぞ)




 福本作品に嵌り、『アカギ』から遡及して『天』を読んでより、ずっと不思議だったことがありました。
 アカギが、どうやったら、『天』の赤木しげるになるんだろうと。
まるで別人じゃないかと。
 これは勿論、『天』の方が、成立が先だというのがありまして。『アカギ』は、『天』赤木しげるのスピンオフ、いわば、プロモーション・ビデオ(笑)。福本、やりたい放題でありまして、赤木しげるの設定として「アカギ」作中のエピソードはあったのだろうと思うけれども、どこまでが完全に『天』赤木しげるの過去として想定されていたのかは、正直分からないわけです。作品はそれ自体ひとつの生命体だし、常に、「発展」というドライブがかかってくる。「アカギ」など、鷲巣麻雀があんなに長期化していることから見ても、ドライブがかかりすぎて、今、どこに行ってるんだか分からなくなっている感がある。作品の発表順が、『天』→『アカギ』となっている以上、どうしても、『アカギ』のアカギには「後出し」的な要素があって、「アカギ」の着地点→『天』の「赤木しげる」へと、すんなりと繋がっていけるわけではない。



 けれども、キャラ理解としましては、やはり「アカギ」→「赤木しげる」。上述のような、メタ的な事情を考慮しましても、やはり、その流れで考えていくより、ない。まるで「別人」とするやり方もありますが、『天』ラストの回想で「アカギ」が登場しているように(髪型短いぞ…!!)(カワイイ!)、この二者は「つながっている」と見るのが、自然な成り行きと思います。



 で。
 そうなると、ますます、重く圧し掛かってくるわけですよ。アカギと、赤木しげるとの間の、この断絶。「べっつじーん!!」と言いたくなるような、この変貌ぶり。その年月の間に、一体、何が?
 そして、この鷲巣戦が、漫画『アカギ』のラスト・エピソードであろうという予測から、またその戦いの強烈さから、これが、何らかの分岐点なのであろうと。分岐点でないはずがないと。類推せられてくるわけです。



 鷲巣戦は、アカギにとって、決定的な「何か」であった。
 では、一体、どういう「何か」であったのか?
 それを考えてゆきたいと思います。

 
 
 まず、『天』の赤木と「アカギ」のアカギの違いを考えてみますと、
私は最初、「アカギ」の後に『天』の赤木しげるを初めて見たときに、「ちっちゃくなった…?」と思いました。印象として。まるで「ヒト」のようだ、と。
 でも、これには、『天』における、「麻雀漫画」というカテゴリの影響、そのなかでの「赤木しげる」の役割、という問題も多分ある。『天』はあくまでも、(『アカギ』以上に)「麻雀漫画」で、ラスト3巻を例外として、「麻雀」(ないし麻雀業界)という秩序のもとにある。そうでないと、「近代麻雀」という雑誌そのものが成立しない。
『天』は「麻雀」をやる漫画で、やくざの組長が敵方のドンだったり、日本の暴力団勢力図を塗り替える戦い、とか言いながらも、やってることは、皆、真摯に麻雀を打っているという(笑)。ほんとに国盗りがしたいなら、うるさいのは皆、消せばいいのです。現実としては、そっちに向かっていくはず。でも、『天』がそうしないのはなぜかというと、この人たちは結局、それにかこつけて、「麻雀」(それもギリギリのやつ)がしたいからなのです。要は「麻雀」が第一。ギャンブルの漫画でありながら、まるでスポーツ漫画を見ているかのような真摯さ、ストイック(いかさま込みのストイック)さを『天』が見せるのは、そうした価値観に拠る作品だからだと思う。
 スポーツ漫画が絶対に「スポーツ」という前提そのものを破壊しないように、麻雀漫画も、「麻雀」そのものを破壊してしまっては成立しない。そこを破却しますと、例えば「南国アイスホッケー部」のように、「アイスホッケー」とうたっているのに全くホッケーをしない漫画になるとか(笑)。あれは「少年サンデー」掲載だったからそれでOKだったけど、例えば、掲載誌が「少年 アイスホッケー」だったなら。その変転は決して許されなかっただろうし、変化の幅も、限られたものになっていたと思う。その業界の専門誌であるがゆえに、「求められるもの」のレベルが、おのずから変わってくる。掲載誌のコードによるしばりというのは、結構、有形無形に、大きいものがあると思う。



 そう考えてくると、『天』ラスト3巻で、「麻雀」の枠を超えて「人間の生」を描き、しかも「ギャンブル」「麻雀」と深くミックスされた「人間」を描き、その最期を描いてしまった作家が、その後『アカギ』において、心理描写、人間描写、哲学描写に膨大な力を注いでいくことも、うなずける思いがします。『アカギ』では明らかに、「麻雀」という場を借りて、「それ」を描いている。『天』ラスト3巻を書いてしまった後では、きっと、作家はもはや戻れない。麻雀の専門誌という場の外、「ヤングマガジン」という媒体で、「カイジ」を描き、既存のものを超えた「福本ギャンブル」を描き続けているということも、さらに、うなずける思いがします。
 

 
 なので、今も連載中の『アカギ』は、『天』ラストを通り抜けた後に描かれている作品なのであり、今もなお、アカギは、進化を続けていると。福本スピリットの変遷と軌を一にして、アカギもまた変遷中、一度、乗り超えた「枠」の外で、変化し続けている存在。『天』の赤木しげるは、アカギの未来の姿だけれども、逆に、「作品」のメタレベルでは、アカギの方に、より未来の時間が流れている。



 そんなわけで、キャラ論としては、非常に、「アカギ」と「赤木しげる」の比較、因果関係の考察というのは、やりづらいものがあります。漫画として求めているものが、「アカギ」は途中から変わっちゃってるし(進化しちゃってる、とも言う)、なにせ、「アカギ」はまだ完結してない。
 けれども、物語ベースに立ちまして、アカギと、赤木しげるとがリンケージしているとの見地から、二者の相違について、今一度考えてみる。
 (ごめん、前置きが、長かった…!!!)



『天』の赤木はその通りとして、『アカギ』のアカギに行きましょう。
『天』の赤木が泰然自若としているのに比して、アカギは、マイペースなんだけれども、常に、基本苛立っている。そして彼は欺瞞を許さない。彼の求めるものは徹底したフェアネスで、自分だけ「食いもの」にしようとする、考えを許さない。「俺も破滅する代わりに、お前も破滅を賭けろ」これが、アカギの、徹底的な、かつ、唯一の要求。つまり彼は、世の中の「アンフェア」に対して、常に、或る憤りを持っているのではないか? というのが、私の考察です。無為の死を遂げたい、破滅がしたいのなら、ふつうに自殺するというオプションもある。薬など、その特急券です。でも、アカギは、そういう、厭世の方向には行かない。常に、「攻めて」くる。つっかかってくる。つまり、「飢えて」いるだけでは必要十分ではないわけで、その「飢え」を、あの形で満たそうとさせる、「ドライヴ」がなければならない。その動機は、何を、根っこに持っているのか。私はアカギは、何か巨大な「不公平さ」に対する、凄烈な怒りを、常に、根底に抱えているように見えます。あのつっかかり方、自分より強いもの、自分を弱いと見なし、押しつぶそうとする「力」に対して、自分の破滅を盾に、向うをも、破滅させようとする。ただ勝負で身を焼くことだけが、したいわけでもない。単に「心」を、喰らいたいわけでもない。アカギが対価として要求するのは相手の「破滅」で、それは一貫して、重要なファクターである。
 ひたひたと己を駆り立てる、白い火のような怒りをアカギは常に抱えており、それを、どうしたらいいかわからない。私は、アカギが敗戦直後の生まれだということも、それに少なからず関わっているのではないかと思います。(1999年9月に53歳ということで、満54歳になっていないことから、誕生日は9月以降と推察) 自分が生まれたときには、もう、何もかもが「決まって」いた。自分と全く関わりなく、街は瓦礫になり、占領されていた。その理不尽さも、価値観の形成に多少なりと影響しているのではないかと思う。
 丁半賭博で命を落としかけた時の、アカギの台詞はとても印象的で、
 

 ねじまげられねえんだっ…! 
 自分が死ぬことと、博打の出た目はよっ…!!


 この前段でアカギは、世界を手中におさめるほどの「権力者」の存在を言う。それは、アカギにとって、「この世」というものが、そのくらい不確かなものだと、或る「権力者」によって、自分と遠いところで、或る日支配されてしまいかねないくらいの不確実なものだということを、物語っているように思える。そして、そんなアカギにとって、「確かなもの」とは、「博打の出た目」と、「自分が死ぬ」ということ。
 この台詞に会ったときに私は、ああ、アカギは、「自分にとって絶対に確かなもの」を、賭けあっているんだ、と思った。博打の出た目と、自分自身の死というのはつまり、アカギが賭けを巡って引き替えにし続けてきたもの、そのものである。博打の出た目と、自分の死ということだけがこの世で確実なもので、だから、その確実なものに対して、自分は命を賭ける。それが、アカギの、根本的な価値観ではないかと思う。いかさまを知らないわけでもないアカギが、「博打の目」を確実なものだと位置づける、そこに、アカギの価値観の独特さや諧謔味があるし、同時に、悲しさがある。
 アカギは、そのように自分が「ねじまげられない」と信じるものに殉じ(ねじまげられないからこそ、殉じられるのだ)、無為の死に身をさらしながら(そうだ。「ねじまげられない」博打の目に身をささげながらも、それが「無為」であることを知っているのだ)、おのれの破滅を賭ける代わりに、相手の破滅の、いっぱいいっぱいまで行ってしまう。「勝負の後は骨も残さない」という、アカギのその言葉には、根底にたぎる飢え、そして怒りを、表出しているように思える。金など全く興味のないアカギには、自分が、死のギリギリに身を晒すこと、そして、相手の完膚なきまでの破滅を、あくなく求めている。
 それは、時に、逆に不均衡をもたらす。
 竜崎、矢木に始まり、アカギの向き合っていた相手は全て、「勝って明日を暮らす」ために、その場に臨んでいる。市川は多少例外だったにせよ、「白」の暗刻を落とすという、アカギの「理」を捨てた行為の根本を、理解することはできなかった。こよなく破滅を賭けたがっているのは明らかにアカギであって、勝負した相手は、必ずしも、そこまでの深さを望んではいなかった。アカギの賭け方は、場のコードを乗り越えており、アカギにすれば「賭けに臨んでいる以上、そこまでしていけないという理由はない」ということだろうけれども、それが或る悪意であることには、変りはないと思う。アカギは決して、格下をカモるようなことはしないが、丁半博打で窮地に立たされた組の立場からしてみたら、アカギの方こそ、度を知らない不届き者である。つまり、アカギと賭けの相手とは、精神の深度において、同じ地平に立ってはいないのである。
 アカギは、社会的側面や武力の側面において、弱いものをやりこめたことはないけれども、精神の強さ、その捨て身の深さという観点でいえば、結果として、自分より劣るものたちを食い散らかしてきたことになる。それでは到底、飢えは埋まらないし、或る得体の知れない理不尽さに対する「怒り」も、鎮火することはない。そんな相手の「破滅」をいくらもらってみたところで、まるで足りないのだ。浦部との戦いの後の、

あれでは足りない こころが満ちない


という言葉は、それをあらわしているように思う。


 そんな飢えを抱えて、丁半博打であわや死という局面にも出会い、そしてまみえた相手が、鷲巣巌だった。
 アカギの飢え、それは、自分が満ち足りるくらいの相手と、「破滅」を奪い合うこと。その末に、「限度いっぱいまで」いった結果として、相手または自分の、破滅が訪れる。鷲巣巌は、アカギにすれば、始めから、絶好の相手に見えた。そのために、仰木たちに「かつがれてやる」ことにした。
 一方鷲巣は、始めは、アカギと破滅を奪い合う気などなかった。一方的に、自分が、アカギをなぶり殺すのだと思っていたからだ。その点で鷲巣は、「勝って、明日を暮らすために」卓に着いたのだといえる。
 だが、その考えはほどなく、裏切られることになった。アカギはかつて、十三歳の頃に、ある少年に言った。

殺してやるっていうことは、自分がそうされても構わないってことだ 


 そのフェアネスは鷲巣に対しても容赦なく発揮され、「あなたの破滅に手が届く」「あなたを殺しに来た」と、はっきりと、鷲巣は言い切られることになる。
 鷲巣は始め、アカギに追い詰められ、翻弄され、追い込まれてしまった。瀕死の様相になり、心のみならず存在が折れそうになった。
 しかし。
 ここからが、鷲巣巌の、稀有なところだったのである。
 これまで、誰しもが折れ、自ら潰えてきた局面で、まさに不死鳥のように、甦ってきてしまったのだ。それは自分自身の特別さ、天よりの恩寵を信じる心性、自分が滅びるなどということを、絶対に、許すことの出来ない心性、そしてこんなときほど、真に覚醒してしまう心性のゆえである。
 アカギと同じく鷲巣も、「いくところまでいってしまう人間」、なによりも、「いくところまでいってしまうことのできる人間」だった。単に、金の多寡の話や、社会的な破滅云々の問題ではなく、人間レベル、存在レベルでの、破滅、破綻の縁に、限りなく近づくことのできる存在だったのだ。その、精神の強さを保ったままで。
 あの鷲巣戦の場において、アカギと鷲巣のいる世界は、周囲の人間のいる世界とは別の世界である。その深さまで降りてくることの出来る人間は、あの二人以外には存在しない。
 アカギが賭けているのはリアルタイムの自分の生命であり、一方、鷲巣のかけているものは、一見、金だが、実はもう既に金ではない。そこに鷲巣は、アカギと同じくリアルタイムに、自分自身の生を賭けている。逆に言えば、鷲巣の賭けているものが、金から、金ではないものに変わった瞬間に、真の、そして長い、鷲巣戦が始まったのである。



 そんなことのできた人間は他にはいなかった。
 そして、リアルタイムに互いの生を掛け合うような麻雀は、もはや、麻雀の範疇ではない。だが二人の勝負の根幹を担保しているのは、やはり麻雀という遊戯であって、その狂気じみた部分も含めて、すでに人外の麻雀、魍魎の世界の住人である。



 文学理論のなかに、「地獄めぐり」というマトリックス(話型)がある。
 地獄へと深く下っていて、そして帰還するという型が、洋の東西を問わず、古典に見られるというのだ。それは現代にまで受け継がれて、全世界的に無数に見られ、或る、人間の根本的な要素、物語というものの一つの根幹を、体現するものではないか、という考え方である。古典では、オルフェウスの物語、また古事記のヨモツヒラサカの物語がそれにあたり、現代では、村上春樹の鼠三部作などが、その例に挙げられる。
 全てに共通していることは、「地獄」(またはそれを暗示する深部)へと、巨大なV字を書くように、深く深く下っていって、そして、最深部へたどり着いたとき、主人公は何かを得る。しかし、また再びV字は上昇に転じ、地上へと昇っていって、戻りついたときには、巨大な、替えようのない何かを、失ってしまっている、ということだ。それは、ビルドゥングス(成長)の寓意としても語られる。



 私は、アカギにとって、鷲巣戦というものは、この「地獄めぐり」に、相当するものではないかと思う。
『天』の赤木のいる世界は、はっきりと、人間の世界である。鷲巣邸に足を踏み入れるまでのアカギも、また、「ヒト」の子の世界に生きていた。この鷲巣戦という、深い地中の底で、アカギは巨大なものを得、そしてまた、巨大な何ものかを失ったのだ。そして、ヒトの世界に、戻ってきたのだと思う。
 「地獄めぐり」では、いったん「地獄」から戻り出てきたものは、もう二度と、その地底へ返ることは出来ない。永遠に、その扉は閉ざされるのである。
 私はアカギには、鷲巣に変わる存在はもう二度と現れなかったと思うし、それ以前にも、以後にも、鷲巣戦を凌駕する勝負は存在しなかったと思う。赤木しげるが「伝説」を作ったという三年間については、まだ何も語られていないが、それは、ヒトの世界での勝負に、とどまっていたのではないだろうか。旦那衆に人気のある、花のある打ち筋、というのはつまり、神がかってはいるけれども、人間としての存在の根幹までをも脅かしはしない程度の、それだったのではないかと思う。



 おそらく、というよりは確実に、鷲巣戦において、鷲巣巌は敗れることになるだろう。
 そしてアカギは、自分の望み続けてきた「破滅を奪い合うこと」の成就、達成をみるのと同時に、その先にあるものをも、受け取ることになる。
 本当に、他人を、一人の人間を、破滅させるということはどういうことか。それを、アカギは、知ってしまったのだと思う。しかも、その相手は鷲巣巌という、未曾有の熱量を持つ、究極的な存在であった。その巨大な人間と、いきつくところまで、戦いを奪い合って、そしてその結果、鷲巣を、破滅させるにいたる。その長い過程の末に、アカギはやっと、もういい、と、思うことが出来たのだと思う。やっと、気が済んだ、という境地に、至りつくことができたのだとおもう。自分を衝き動かす、白い、火のような怒りについて、もういいや、と、思えたのだと思う。
 アカギは、その思いを得ることと引き替えに、真に怪物的な、人外の、魔の域に列するような凄絶さを、なくしたのではないかと思う。そして、鷲巣巌という巨大な存在を、その生のなかで、永遠に失くしたことも確かだ。そのことによってアカギは、地獄へと降りてゆく、鍵と、扉とを失ったのだ。自分ひとりでは、地獄への扉は開かない。そしてもう誰も、アカギのその扉を、あけることはなかったのだと思う。どんなに、もう一度そこへ、帰りたいと思ったとしても。
『天』の赤木しげるの凄みは、確かに凄絶だけれども、それはどこか、かつての残光を、思わせる光のように見える。天も、ましてひろゆきも原田も、「アカギ」がかつてどんな存在だったのかを、知ることは決してない。赤木しげるの、凄みは、地獄めぐりの過去を身に潜めて、ヒトの世界を生きていることの、生き続けていることの、凄みと、哀切なのではないかと思う。