「無為」の毒、労働阻害からの「阻害」


そして、来週、再来週も、元気よくまた出張です。でもお仕事があるだけありがたいのです。
いや本当、健康が有り余っているのに仕事が無く、無為に、部屋で ぐね…ぐね…せざるをえなかったあの時期に比べたら。(就活はしてたけどね)
ほんとね、「無為」は、人をだめにしますね。なんか、あらゆるものが蝕まれていく感がありました。病気で休まざるを得ないとか、そんな必然があってさえ、やっぱ「休んでるのは辛い」と、闘病した友達は言います。ましてや、万全なコンディションがあってをや。


「無為」の、恐ろしい毒性に気がついてしまいました。
「やれるのに」/「やることがない」「今、世の中に求められてない」
これが、どれほど、人の心を傷つけるものか。ああ、久々の休みだわ、って思えて、納得感がある間は、もちろんそれでいいと思います。その「お休み」は、自分のリスクを払って買いとったもの。存分に満喫すべきです。
でも、もうチャージ十分なのに、グラウンドに戻って来れているのに、出走するレースが「ない」っていうことの悲しさよ。
いま、盛んに若い人の就労問題がいわれていますけど、その最大の問題は、生涯賃金とか経済学的な部分じゃなくて(勿論それも大事だが)、その「無為」によって、何かものすごく大事な部分が傷つけられていくこと、ひたひたと、でも、とんでもない重い力によって、自分の存在の根っこが、削り取られていくこと。そこにあるんじゃないかと思います。
この、「深い」という言葉では言い足りないような絶望を、万単位の青年が感じ続けているのだとしたら、それは、とてつもない恐ろしいことなのではないかと思います。


「労働阻害」という言葉があります。簡単に言うと、「会社がつまらない」という状態のことをいいます。(と、斎藤美奈子先生が『あほらし屋の鐘が鳴る』で教えてくださいました。)
会社で、「周辺の仕事」しか回されてこない、一般職や「地域限定職」の社員が置かれているような状況です。そして、これらは概ね女子なわけで、なんだったら総合職の女子でさえ「ガラスの天井」なんかがあるわけで、この「労働阻害」はフェミ的にもずっと問題になってきた。
だけど、その周辺にさらに、パートタイム(「協力社員」等と呼んだりもするみたいですが)の立場、派遣社員の立場があって… フェミのみならず、他方位的な問題として、年を追うごとに拡大&クローズアップされてる。


で、この「阻害」にすら入れてない層が、まだ、相当の人数で存在している。
この種の「労働阻害」にすら、「阻害」されている人が、夥しい人数で、いる。
つい最近までは私も、そのうちの「ひとり」でした。


そのことを考えると、この国は「どうなってんだ?」と、正直、思います。
よっぽど危ないような気持がします。
日本の経済、ないし文化は、特に「イメージ」や「幻想」、「ストーリー」を消費財にして、むくむくと成長してきた。どの国でもそうだろ、って気がするけど、特に私の物心ついてから今現在にいたるまでには、つまり、不景気&デフレで実際の「商品」が売りにくくなっていってからは、その傾向が強まっていくのを、顕著に感じてました。
で、それはどういうことかというと、「広告」主導の世の中、ということだと思います。
へたをすると、親の言うことより、テレビの言うこと、「流行り」の言うことを聞いちゃう。実感として、そんなムードなんじゃないかと思います。
だけど「広告」は、消費者一人一人の事なんか、本当はまったく考えちゃいない。


私は、就職してから、転職を考え実際に離職してからはもっと、つくづくと思ってました。
「なんて、『派遣社員』になりやすい国なんだろう」、と。
ひょっとすると、大学に在学中から、「派遣社員」だったりします。実際、私はそうだったし、友達もそうだった。
「派遣で働く」ということが、日常レベルに浸透していて、そして、テレビ・ネット・駅・街頭、メディアを埋め尽くす、「派遣会社」の広告群。それらはとってもキャッチーで可愛くて、あたかも、「とっても楽しい何か」が開けるかのようにそこには書いてある。それに流されるのがお馬鹿なんだ、と賢人は言うでしょう。信じるのも全て自己責任、そう、それは、現実問題として、「そう」だと思います。そこにしか帰着しない。
だけど、この、「無意識」ってやつは。「無意識」ってやつは、厄介な代物です。そんなにスパッ!と、制御しきれない。気がつくまで分からなかった、というような事態が、普通に起こりうる。だから、そんな羽目にならないように、ちゃんと勉強をしろ、自分で自分を守れ、というのが「お約束」です。みんなそう言うでしょう。だけど、その「お約束」を、いつ、どこで、みなさん身に着けたのでしょうか。
私はどうも、「前の世代の人たち」から受け継がれるべき、なにか、ロープみたいなものが、ところどころ、切れているような気がするのです。
それでいて、負債だけ、どんどんと負わされてるような気がする。


その「切れている感」は、世の中の変化や、経済が暴落したスピード、その長期化がすごすぎて、前の世代が「ロープ」だと思っていたものが、もう、使えなくなっちゃった、ということだと思う。
といって、上の世代としても、なにが「有効」なのかが分からない。
分からないから、ちぐはぐになる。分からないから、強く言えなくて黙っちゃう。
そんな、ゆるやかな「放擲」の中に、我々はいるのではないか? と思う。
「定職に就く」というスタンダードがスタンダードとして機能しない状態の中で、「自分を生かした仕事をする」という魅惑的な「無意識」にも引き裂かれながら、決定を進めていくのは、とても難しい。
これほど受け手が揺らいでいる状況がある。そのなかで、現在の「派遣就労広告」の全盛ぶりには、危うさと、異様さとを感じてしまう。
「正社員になるのは難しい」というイメージが日々再生産されて、一方、「派遣」で働き始めることが、なんと易しく&優しく、感じられることか。
派遣会社の広告は、みな「ストーリー」を帯びていて、「そんな私が好き」な感覚に訴えるように作られている。(『働きマン』が某社の広告イメージを担ったときには、ほんとに、ちょっと寒気がした。)そんな広告がいたるところに溢れている。その就労形態には、不定期就労ということをはじめ、重いポイントが沢山付随している。にもかかわらず、そんなことは、広告には、一言も書かれていない。


派遣会社の「甘美な」広告を見るたびに、どうしても、疑問を感じてしまう。
「無為」に傷つく人間の心の隙間に、食い入ろうとする、その狙いに、卑怯さを感じることがある。でも、ビジネスですもの。ギブ・アンド・テイクでしょ? って、きっと、向うは言うだろう。言いがかりをつけられたら困ってしまうわ。
ええ。その通りですよね。でも。
そうした広告に埋め尽くされた街なかを歩くたびに、どうしても腑に落ちない気持が、起こるのもまた確かだ。