サガン「悲しみよこんにちは」


(上の記事に関連して)
ラノベ、BLにもむろん良書はありますが、このまま行くと、古今の名作なんて、「出会う機会」自体がまるでなくなっていくんじゃないのかと… 危惧しないでもありません。
先日、やっと(文学部なのに!)、サガンの「悲しみよこんにちは」を読みましたが、むちゃくちゃ面白いのな…! 


これに出てくる、「わたし」(17歳)と「アンヌ」(50代手前)の関係がたまりません。(「関係」「関係性」って言葉も、大分手垢がついてきた感がありますが。) 
ものすごくツボでした。これは、女子中学生、女子高生こそ読むべき本…! と、じき30という歳になって初めて、震撼するわたし。遅いっつうの(笑) 
悲しみよこんにちは」、ものすごく現代的…! 
というか、これはおそらく、普遍。この、「とりかえしのつかないことになった」感も、ものすごく素晴らしい。あるよね。こういうの、ありますよね。一時の悪魔的な思いつきが、永遠に、ああ、永遠に…!!! みたいなの。
「7SEEDS」(田村由美)の9巻でもあったじゃないですか。

安吾「あの瞬間生じた薄汚い感情を 俺は生涯呪うだろう」


これよこれ。これなのよ。私ですらありますよ、こういうの。まだ四半世紀とちょっと、そんな、若輩な人生のなかでさえも。
たぶん皆多かれ少なかれあると思うけど、そういう部分を、ぐっと掴まれて掘り起こされるような小説。


悲しみよこんにちは」は、発表当時、「小悪魔的」と称されたそうですが。今じゃ小悪魔っていうと違う意味になっていますけど(笑)、この小説は、本当に「小(しょう)・悪魔的」というんですかね。人間みんな、そこまで大悪魔なわけじゃないけど、誰の中にもある悪魔の部分。割合といったら、きっと(個人差はあるけど)5割も6割も…ってわけじゃない。だけど、そんな一部分が、全面的に出てきて、全て覆い尽くしてしまう瞬間、「それ」イコール「全て」になってしまう瞬間がある。そして・・・  というようなことを、実に、考えさせられる作品。
その過程をたどる筆致が、また、秀逸。
よく言いますね、「どうして、私のことがここに書いてあるの?」と。
きっと、そう感じる人が、とても多いのではないか… と思わされる作品。中高生の頃に読んでいたら、きっと、私は、そう感じたと思う。そんな、自分の過ぎ去った年月をも、しみじみと感慨させられる作品でした。


だから、こんな本をね…! 「名作」を、もっと、アナウンスしていこうよと思うんですよ。先生とか。メディアとか。しかるべき立場にある人たちは。
私だって、「大好きな作家、の、言及していた作品」でなかったら、そのラインで情報を得てなかったら、「悲しみよこんにちは」を読まなかった。「あぶねえ…!まさに、千載一遇だぜ!」と、冷や汗をかくわけですよ。読み終えて。読まなかったら、むちゃくちゃ、損をするところだったと。
たぶん、「名作」って、もう少し上の年代だったら、「当然読んでおく本」として、「誰に言われなくても」把握されていたはず。でも、現代は、その「コモンセンス」(?)のラインが8〜9割方、切れている。きっと今後、もっともっと切断されていく。
どーなるのよー! と、「きいーっ!」とかなりそうになりながらも、一方では、その「ライン」の断絶を埋めていくのは、もしかしてブログとか、ネットのつながりなんじゃないか…? と、思うわけなんです。


「名作」だから、読まなきゃいけないってわけじゃないけど、面白い本は、もれなく、読みたいじゃん。ていうか、私が、読みたい(笑)
私など、かつては「名作」アンチでございまして、「名作? けっ」みたいな。(ばか…!) でも、今ここにきて、いくつかのタイトルを読んでみて、「やっぱ面白いよな、名作…」と… しみじみ、実感することが多くてですね。やっぱ、「名作」ってのは伊達ではなかったと。感じいる次第なんですよ。ああ、ばか…! かつての、自分の、益体もない自意識が憎い。
そんなわけで、現代のも読みつつ、往年の名作も、ちりちりと読んでいる次第です。
城山三郎の「総会屋錦城」も面白かったわ… 「銀と金」(福本伸行)を愛する人には、激烈にお奨めです。というか、萌えます。萌え小説です。錦城というのは老齢の総会屋なわけですが、錦城の魅力はもとより、「おつきの若い人」(名前を忘れるな…!)ってのがまた、憎くってねえ…! その関わり合いとか…。 第一、「おつきの若い人」っていうポジショニング自体が、憎たらしいじゃないですか。読んでいて、何度むせたことか。まるで、アロマを吸い込むように、すうすうと、吸引いたしましたよ。ときめきを。


そんなわけで、楽しい読書☆
みなさんもGWに、ぜひ…! そして、お奨めを教えてくださいませ。