デスノート・アニメ25話「沈黙」感想

デスノアニメ25話のネタバレを含みます)



見たわよーーーー! デスノ、アニメ25話!!!!!!


泣いちゃったじゃないのっ・・・・・!!!!!


L:「寂しいですね。もうすぐお別れです」

やめてよ、Lっ…!(泣) 嫌だよう…!


豪雨に濡れてどうこうの部分も見ました。
なぜ、そこで、ライトの足を拭くか…?
これはどう見ても神にからむ寓意、それもキリスト教の寓意であるとして、
聖書において、足を拭く場面としては、
ひとつには、マグダラのマリアが、高価な香油をもちいてイエスの足を洗う場面。
もうひとつには、イエスが、死に赴く前に、使徒たちの足を自ら洗ってやる場面がありまして。
そんで、「あなたたちも、互いに足を洗い合いなさい」って言うんですけど。
デスノアニメ25話の「Lが、ライトの足を拭く」場面は、この後者の寓意だと思うんですね。
Lの方がキリストの寓意を持っていて、そして、「新世界の神」であるライトの足を洗ってやると。死にゆくLが。


私、Lが死んだときに思ったんですよ。そのとき、さすがに書けなかったんだけれど、
Lって、キリストみたいだなと思った。
Lは新世界の神「キラ」に逆らった罪で殺されたわけだけど、
その「罪」というのは、キラに逆らう人間、キラを良しとしない人間、キラに抵抗しようとする人間すべてに、共通する「罪」。Lは、それを、代わりにおこなっていたわけですよね。他の誰も出来なかったこと、キラと「闘う」という反抗を、Lだけがおこなった。(他に、捜査本部とかもいますけど、それはまあ。) 人々は口をつぐみ、何も出来ないでいる、あるいは、しようとしない。まるで羊のように、無意識野に「罪」を、キラへの抵抗感を充満させている。
そして、Lは、神に逆らった「罪」のため、ただひとり、断罪されて死ぬ。まるで、すべての人々の「罪」の、身代わりになるかのように。
誰にも理解されずに、(むしろ石を投げられ、)
すべての罪、咎、屈辱を、その身に引き受けるようにして死んでいく。


エスの死と違って、Lの死では救済は得られなかったわけで、それは「神の子」とは違う、人の子であるわけですが。
でも、Lの死を賭した意志、死と引き換えた意志が、ニアやメロを動かし、結末に導いたわけですから、間接的にもせよ、その死は、大きく働いているといえるでしょう。(というか、いうまでもない。)


Lでなくても、キリストと同一視、なんてのはちょっと危険な話で、同一視なんかじゃないんだけれど、誤解を生むのも嫌だったので、そのときは、そう感じたのを書くのを自粛しました。
でも、すごく、そうは思ってて、そのテーマで小説のプロットを切ったりもした。その当時の、「おお!」という気持ちが、25話を見たら、ぶわっと解凍されて、「やられた…! マッドハウスっ!」っと思いました。


そのように、第一部完の時点ではLをキリスト的だと思い、
そして、原作のラストまで行ったとき、ライトもまた、ある種キリスト的だと思った。
でも、彼は神の「子」っていうんじゃなく、自ら、「神」を名乗ったので。
その意を汲んで、ちょーっと、解釈としては、違ったことになるのかな? って思います。
(キリスト的ではあるんだけれどもね。)


アニメ25話の感想はそんなかんじで、
ああ、やっぱ、デスノートってやばい・・・! と、強く思いました。
やべえ。抜けらんねえ。
コレを書いたらデスノの小説を書くのは終わろう… と思っていた話が書き終わったのに、ぜんぜん、まだまだ、やめられないんですけど。とりあえず、照、いるし。そんで、25話見て、再燃したLのプロットがあるし。ニア月書きたいし。ちっとも、福本れねえよ…!(注:「福本る」=福本作品に耽溺して空想を羽ばたかせ、小説を書いたりする)
やっぱね、デスノ、はんぱじゃないんだわ…! お話として。何よりも私にとって。
ほんとう、こんなに、やられてしまっているとは、自分でも、いささか驚きです。
いま、とっても、デスノだけにかまけてられる状況じゃないんですけど。仕事を覚えたり、自分の勉強もあるし、仕事だってただ給与ってだけじゃなくて、実績を出して、出世したりしたい。「このまま」でいいとはとても思えないのでそれなりにやってかなきゃいけないんだけれど、でもデスノも、捨てずに(笑) 出来る限り、じりじりと、やっていけたらいいな、やりたいなと、すごく思いました。