∀ガンダムの魅力!

∀ガンダムWEB
http://www.turn-a-gundam.net/index.html



わが最愛の名作、「∀ガンダム」のDVDボックスが発売…!
お値段的に、とても、買えないわけですが。
上の公式サイトで久々にターンAの画像を見て、血が再燃したわ…!
本当に、ターンAガンダムは素晴らしかったと思います。
ストーリーの詰めという点では、ファーストガンダムなどには及ばないけれども、あの世界観が、本当に好き…!


ターンAは、フェミ的にも、実にいいアニメだと思いました。
わたくしの魂に響くものがありました。
こういう、ロボット(って言っちゃいけないの?)系アニメでは出色の展開だと思います。
だいたい、「大きい男の子向け」の戦闘ものの女子キャラの扱いには、絶えず、嫌なスメルがまとわりついていると思う。アニメ的には白眉だったエヴァンゲリオンだって、それは、例外じゃありませんでした。作品を楽しみつつも、「ちょっとねえ… これ…」という気持ちにさせられることがいっぱいあった。不動の道徳アニメ(ってことになっている)ジブリ作品でもそう。ナウシカの活躍に感動しながらも、同時に、ある種の悪趣味さを感じとりもする。

でも、ターンAガンダムには、それがなかった。
ほとんど奇跡みたいだなと思った。
この、男女同権ぶりというか、ものすごく、「フラット」な世界観。のめりこみ、夢中になりました。
女性にはみんな、仕事があり、人生があって、みんな自分の足で立ってる。そんなのファーストもそうじゃん…?って思うでしょうけど、全然、違うんです。「男のための」女性キャラじゃなくて、「その人物のための」そのキャラ。言葉が重なるけど、ものすごく、フラットでイーブンだ。
ロランの人生も、キエルの人生も、ソシエの人生も、おんなじ。
それには、女性の描き方がとても自立的なことと、さらに、
「男キャラが、特別に強くない」ことが、ものすごく関わっていると思う。


ロラン・セアックは、とても強く、自立した(最初から彼は自己をアイデンティファイできており、そこが、アムロと最も違うところである)男子ながら、とても物腰がやわらかくてやさしい。実に、キエルお嬢さんとソシエお嬢さんの「しもべ」である。でも、そうやって召使いをやっていたって、変わらないもの、崩れないものが、ロランの中にしっかりとある。彼の望みは、「地球で、普通に暮らしていくこと」。
ターンAガンダムのテーマは「普通の生活」にあると思う。戦争をして、何かを手に入れる、「男」を立てる、っていうことじゃなくて、ただ、「普通の生活」がしたい。地面に足をつけて、まともな、何の変哲もない、日常を送りたい。それが、「月」の社会で孤児として生まれ、13歳にして地球に「被験者」として送りこまれてきた、ロランたち三人の切なる願いだった。
彼らは、地球の社会に入り込み、一定期間「月」に生体データを提供した後は、晴れて、自由の身となることができる。キース(男子)は「パン作り」に興味を示し、フラン(女子)は始めからジャーナリスト志望で、いきなり記者は無理だから、せめて印刷工から…と、新聞印刷工場にもぐりこむ。そして、機械に興味のあったロランは、ハイム家の住み込みの使用人として、家事のかたわら、鉱山の機械いじりをするようになっていくのだった。
そうやって、それぞれが築いてきた「普通の生活」を、「月」による「地球への移民計画」が壊していってしまう。ロランたちのいるアメリア大陸に「ムーンレィス」が上陸、戦闘が起こり、ロランを雇ってくれた「ハイムさん」(お嬢さんたちの父)は亡くなってしまう。キースのパン屋さんも、混乱に巻き込まれる。地球と月の話し合いはこじれ、戦争がなしくずし的に続く。
ロランは、「地球に住む人間」であると同時に、「月から来た自分」のことをも知っている。その板ばさみに苦しむ。そして、そのなかで、自分の「お嬢さんたち」、自分の「暮らし」、自分の大切な人たちの「暮らし」を守っていくため、地球の「ミリシャ(市民義勇兵)」の一員として、ターンAガンダムで闘うのだった。

そんなロランの動機は、「男の子になること」とは遠くかけ離れており、そのような概念は、ターンAガンダムには存在しない。ターンAに乗ろうと乗るまいと、すでに、ロランは「ロラン・セアック」であり、その自我にぶれはない。そこが、ターンAの、そして、ロラン・セアックの、最大の魅力であると思う。自分探しはしない。自分を探していられるほどには、ロランの人生は甘いものではなかった。ロランは、すでに13歳で被験者として地球に送られたときに、みずからその人生を決定したのだ。いわば「おとな」になった。自立して、「社会」の中に出ていったのだ。それが、ターンAガンダムの冒頭である。ロランたち3人を乗せた宇宙船が、地球に着陸するカットから物語りは始まる。「そこから」始まった物語が、すでに自分探しなど遠く置き去りにした、その先の地平にあることは、重ねて説明をするまでもない。


そのようなキャラクター、ロラン・セアックが主人公であるこの物語は、とても魅力あるふくらみを見せる。
さらに、キーパーソン「グェン・サード・ラインフォード」のキャラクター造形もまた、ターンAガンダムの魅力を深めるひとつだろう。
グェンは、はじめからロランのことを「ローラ」と、女性名で呼ぶ。最初だけだろうと思っていたのに、なんと、最終回まで「ローラ」呼びを通した。見上げた、愛と執着である。ロランはしばしば、「僕はローラじゃありませんよ」と言い、グェンの「ローラ」呼びを耳にしたソシエ、その友人のメシェーも、「(ローラじゃなく)ロランよねえ?」「ロランよ」と言い合う。でも、御曹司(※グェンのこと)は、お構いなし。一貫して「ローラ」と呼び続けるのだった。
グェンのロランへの思いは、これはもうはっきりと「恋」そして「愛」である。
グェンはロランを絶えず側に置こうとし、そして、自分の勢力下に置いておこうとする。中盤、グェンたちとロランたちの間が割れそうになったときも、「ローラはこっち」と決めて熱烈なアタック。そして、思うとおりにいかないと、ご立腹になる御曹司である。
その異様な執着ぶりを、グェンの恋人(ということになっている)リリ嬢が揶揄する場面が、ものすごく秀逸だ。


リリ:
「そんなにロランがほしいのなら、あなたがスカートをお履きになればいいのに。ロランは一匹の若い豹、スカートを履かせておくことなどできません」

グェン:
「(顔をゆがめて)(私が)スカートを履いていては、アメリア(大陸)を治めることなどできないでしょう」

そして、後にグェンが離反し、ミリシャを束ねる立場となったリリは、各諸侯に密書をしたためながら、こうひとりごちる。

リリ:「さようなら。アメリアは、スカートを履いたまま、わたくしが治めますわ」


ロランを、その意思をよそにして、「スカートを履く立場」にしておこうとするグェン。スカートを履いていてはアメリアを治められない、つまり、指導者でいられない、優位な者でいられない、とその口で自白しつつも、相手を「その立場」にすることには、なんら抵抗のない、この欺瞞。そして、それが、作中ではっきりと喝破されていること。
さらには、そういうグェンが、ある意味で「とてもナチュラル」に、作中に存在しえていること。
それが、ターンAガンダムの、奇跡のようなバランス感覚である。
はっきりと、同性のロランに恋をし、その愛を表明してやまないグェン。その愛には、作中ではなんのジャッジも、バイアスも、負荷も、加えられていない。その愛し方がいかがなものか、という言及はある。けれども、「愛していることそのものがいかがなものか」というような横槍、ジャッジメントは、まったく、この作品には登場していないのだ。
「ロランを、めちゃくちゃ愛しているらしいグェン様」という存在が、とても普通に、本当に空気に溶けこむように、ターンA作中に存在している。この世界観。そこに、私は何か、理想郷めいたものさえ、見えてくる気がするのである。
グェンの愛し方はちと異様だけれども、愛していることそのものは、ちっとも、異様なものではない、という。その存在の仕方が、本当に素晴らしい。それを受け入れるか受け入れないかはロラン次第であり、そしてロランは、「ディアナ様」そして「キエルお嬢さん」「ソシエお嬢さん」がいるがゆえに、また、自分は「ローラ」ではなく「ロラン」であるがゆえに、グェンの愛し方に応じることができなかった。同性だから、ではなく、あくまでもロランの価値観に照らして、グェンに応じなかった、その展開、その描き方が、とてもよかったと思う。
「ぼくは男ですよ?」と、ロランはグェンに言ったけれども、それは、ロランが「ロラン」であるにもかかわらず、グェンが「ローラ」として接することを、曲げようとしなかったから。そこで、グェンがロランの言い分を聞いて、ちゃんと「ロラン」として愛そうとしたら、このふたりは、どうなっていたか分からなかったような気がする。
その「ふくらみ」が、ターンAの素晴らしいところで、その「ふくらみ」を残しうる描き方、グェンの愛の描写、それらが、本当に秀逸だったと思う。


人の愛というのは、本当は「こう」だ、と、うなずかされる。
同性から異性へ、でも。同性から同性へ、でも。全然、異様でも、特別でもない。ことさら「○○」とカテゴライズして、言い立てることも、本当はないのだと思う。その愛情が発するとき、その人間の心は、「○○をおこなっている」というスタンスにはいないと思う。その人間にしてみたら、ただ、とても自然に、魅力に接して愛情が生まれ、流れ出ていくのだと思う。
実社会では、ことに同性同士の愛の場合には、社会が存在を許さず、一方ではカテゴライズされ、また、そのカテゴリーに逆に拠っていくことで、闘うことが必要になってもくるだろう。
でも、本当は「愛」そのものは、個人ベースでは、とてもフラットで、ふつうで、自然なもののはずだ。


それは、すわ、セックスに読み替えることとも違う。
セックスは、その先にあるものかもしれないが、決して、セックスと「それ」とは同義ではない。
そして、私には、その「それ」の方が限りなく重要で、その前において、セックスは、とても瑣末なことのような気がする。
私は、同性同士の間の愛、そういうパロディも含み、ぜんぜん、「腐っている」などとは思わないし、ことさらそう言い立てる必要もないほど、「ふつう」のことであると思う。私が、それらを「腐」という言葉で代言したいと思わないのは、それがとても大きい。その心の動きは、とてもナチュラルで、人の世の初めから、永遠、普遍に、「そこ」にあるものだ。
その関係を、特異とみなすのなら、それは、そう見なす社会の枠組みそれ自体がいびつなのだ。それを容れられないシステムがいびつなのだ。
そのシステムにつきあってやる必要がどこにあるだろう。
私は、書くのなら、それが「ふつうだ」という世界観で描きたいのだ。
それが、人を描くことだと思うからである。



と、このように、ターンAガンダムは、どこまでも私の扉を開いていってくれる作品であり、鮮烈な印象と、大きな影響とを残してくれた傑作である。今も愛する気持ちは尽きず、感想もまたとめどなく湧いてくる。
DVDが店の棚に並んだ暁には、レンタルででも、ぜひ見ていただきたいと祈る次第であります。