卑劣な言い訳

このところ、DVやモラル・ハラスメントのニュースを続けて目にしている。
こないだの朝のニュースでは未婚カップル間の「デートDV」、モラル・ハラスメントの特集も見たし、さらに私が毎週楽しみにしている「Dr.コトー診療所」でも、DVの問題が登場。島に赴任してきた看護婦のミナちゃん(ナース蒼井優)は、実は夫の暴力にずっと苦しんでいて、そこから逃げるために島にやってきたのだ…という真実が明かされた。


DVでもパワハラでも、肉体的な暴力でも、言葉の暴力でも、通じるのは、相手に対する、その「敷居の低さ」。
やる側は、「こいつを、そういうふうに扱ってもいい」と信じて疑わない。
こいつは、殴ってもいい。傷つく言葉を、言ってやったって構わない。言葉で殴ってもいい。精神を追い詰めてもいい。
そして、そういう暴力を行使してくる人間は、こう言う。
「好きだから」
「愛してるから」
好きだから殴るんだと。
好きだから、傷つけたんだと。
好きだから、そうするんだと。


でも私は、それは、ものすごく卑劣な言い訳だと思う。
好きだから、好きだから、好きだから。 吐き気がする。
だから、何? 
「好きだから」、だから、それが何??
それは、暴力を行う人間の、ていのいい欺瞞だ。最低のごまかしでしかないと思う。
やられる方には、感情を過剰に叩きつけられていること、ハケ口にされている感、ありありと伝わってきている。向こうがどんなにごまかしても、分かる。濃密に伝わってきている。実感として、本当にそれは「分かる」。


暴力をぶつけてくる側にとって、それを浴びせる相手は「他人」ではない。
「他人ではない」というと、何か親密で良いもののようだが、絶対にそうではない。
それは、「個人ではない」ということ。
こういうと、本当に、クリアになってくるだろう。
暴力を投げつける人間にとって、その相手は「個人」ではない。
尊重し、節度を守るべき「個」ではない。
それは、自分の下にあるもの。従属物、子分、言いなりにさせていなくては気がすまないもの。
自分より下にあるものだから、だから殴ってもいい。胸をえぐる言葉でも言って構わない。いや、「言ってやらなければならない」。なぜなら、相手は愚かで、自分が言ってやらなければ仕様がないものだとみなしているから。


それは、個人に相対する人間の態度ではない。本当は限りなく間違っているのに、でも、「そのように扱ってもいい」と、なぜだか、暴力をふるう人間は信じているのだ。
その人間は、すべての人間に同じように、そう接しはしないのだ。ある程度親しい人間にすら、決してそのように振舞ったりはしないのだ。暴力をおこなう人間は、外の人間には愛想がいいと言われている。実際、実感として、本当にその通り。そして、自分の「領土」の中でだけ、自分を脅かすものがいない、クローズドな空間の中でだけ、自分が「下」とみなす者に対して、その暴力をぶつける。体の暴力、言葉の暴力… 相手を「個」として尊重しているとは、到底思えないような振舞いをする。
その人間たちが、他所では、決してそれをやらない理由、それは、それが「他人には決して通用しないはずの行い」だと、自分自身でもよく分っているからだろう。
それを、「好きだから」という、巧妙な理由をつけて行う。そう言って隠蔽する。
だけど、やられる側は、たまったものじゃない。
「好きだから」というのは、それは真っ赤な嘘だ。ひとかけらの理由にもならない。
本当はただ、「相手をなめきっていて、どこまでも見下げきっているから」。
実際はただそれだけだ。


そんなおかしい振舞いを、「してもいい」と、勝手に思われること。
「こいつはこう扱っていい」というポジションに据えられること。据えておかれること。
いつまでもいつまでもその存在の下に、勝手に、敷き込まれること。抑圧されること。
それがどれだけ辛いことか、どんなに傷つけられることか、「お前」は、それを、考えてみたことがあるのか。暴力をふるってくる「お前」に、それがどんなに苦しく、どんなに悲しいことか分かるのか。きっと、想像もしないんだろうと思う。想像してしまうと、相手が「個」ではなくなる。自分が、暴力をふるえなくなる。スッキリできなくなる。だから、相手のことはとりあえず置いておいて、自分が発散することを優先させる。
そんなのが、まともなことだと言えるだろうか。
「人間」同士の、まともな付き合いだといえるだろうか。


見下げられて、ないがしろにされた人間の気持は、余人には分からない。深い深い絶望と怒りが胸に残る。癒えにくい傷が残る。「どうして?」という気持は、ずっと、心の底で問い続けるだろう。その問いには答がない。誰もそうやって、傷つける権利などなかった。それは、始めから間違いきったことだったのだ。だから、いくら「なぜ?」を問い返しても、永遠に、納得のいく答えは得られない。そしてその「なぜ」が、次の、誰かへの暴力となって、発露することだってある。
いったい、どうしてこんなことになってしまうんだろう。
どうして、男は(DVは8〜9割が男性によるもの)、彼女を「もの」だとみなせるのか。
どうして、上司は、部下を「兵隊」のように認識できるのか。
どうして、親が、子供を「人」ですらない、なにか、自分の付帯物のように、扱ってしまえるのか。
公的な上下関係、私的な上下関係(親子とか年の差とか。友人間にも。)、いろんな関係があって、友達や恋人関係には上下なんかない方がいいと思うし、できるだけそう勤めたいけど、人が二人いたら、たいていは上下が起こる。何かに優れてるとか、劣っているとか。だけど、その上下は、個人として、人間として、上か下かということじゃない。見下してかかっていいということじゃない。当たり前じゃん、と思うけど、でも、混同しがちだし、時々、ないがしろになりがち。ところどころで、その境が「混じっている」ことを感じる。私の関わった会社の人間関係なんてのはほんとにそうだった。「編集長」と「部下」がいて、もちろん、編集長の方が、偉い。だけど、偉いからって、「人間としての部下」に、なんでもしていいってわけじゃない。何でも言っていいってわけじゃない。だけど、彼女は、「何でもしていい」って思ってた。それが、「上司としての証」だと。
会社でなくても、そういう事象はあって、本当に、いたるところに転がっている。毎日、いじめの自殺のニュースを聞くたび、暴力のニュースを聞くたび、やりきれない思いになる。


家庭から逃げることが出来ない子供への虐待や、
「恋愛問題でしょ?」で片付けられ、クローズドにされがちな未婚の男女間の暴力行為、ストーカー、社会的生活を人質に握られて暴力をふるわれる、パワーハラスメント、肉体的暴力と違って、説明しづらく、証拠の残りにくい、言葉での暴力・態度での暴力であるところの、モラルハラスメント。…とても挙げきれない。
そういう暴力が、本当に、少しでも減ってほしいと思う。
暴力をふるっている人間に、心の底から、それが「犯罪」だと自覚してほしい。口先だけの謝罪とか、「好きだから」という最悪のごまかしとか、その場限りの勝手な優しさとか、そんなものは要らない。「やってる側」って、ほんとに、何も分かってない。悲しいぐらいに気がついていない。自分が、どれだけ、相手を傷つけているのか。相手が、どれほど苦しみ、どれほど、怒りに震えているのか。
真の意味で、「暴力」を自覚すること、そのことだけを、私は求めたい。そして、自覚したら変ってほしい。自分の振舞いが恥ずべきものだと分ってほしい。卑劣なことをしていると分ってほしい。そばにいるその誰かに、もう、暴力をふるわないでほしい。
人間は暴力をふるう生きものだ。この何年かで、つくづく、そう感じている。そして、暴力をぶつけるのを楽しむ生きものだ。自分の言うとおりにさせると気持ちがいい。拳でなくても、言葉で張り飛ばして、言うことをきかせるのはとても気持ちがいい。人を従わせるのは、本当に気持ちがいい。あの時もあの時もあの時も、あの人は、さぞかし、気持ちが良かったんだろうなと思う。だからこそ、不気味なくらいに優しくなれたんだろう。
人間はそういう生きもので、だからこそ「暴力は使わない」という誓いが、何よりも大事だと思う。