月と照に捧げたい


(いちおうデスノ最終展開ネタバレです)







我が家にはなつかしの「魂のルフラン/心よ原始に戻れ」の8センチCDがあるわけですが、(エヴァ劇場版「シト新生」の主題歌CD カラオケ付き
これ、たまーに聞きたくなるんですよ。
で、今日、何気にかけてみたんですけど。



「心よ原始に戻れ」聞いてたら、なんか…!
なんか、むちゃくちゃライトに重なる…!!



悲しい日々が化石に変るよ もうすぐ
あなたのその痛みを眠りの森へとひそやかにみちびいてあげる
おやすみ すべてに一途すぎた迷い子たち
はがゆさが夢に進化する日まで


ヒィーーー!!!
曲が進めば進むほど「おおお…!」ってなって、すごい切ない気持ちに…
ライトだし、照もアリだこの歌…

いや、奴ら、キラだけど。キラですけどね。殺人者なんだけど。
でもなんかこう、「すべてに一途すぎた」ってあたりが、泣かす…!


2番の頭がまたいいんですよ。

涙の岸でずっとたたずんだ気持ちを
優しく包むように秘密のくすりが思い出の沖へと運ぶよ
おやすみ モラルに汚れていた指も耳も
この腕の中でもう眠りなさい


ちょっ、これむしろ照? とか。
2番は、

破れた聖書を抱きしめるより あなたよ祈りを捨てて

ってあたりが、また照で。


最後の懺悔もかなわないなら

とか、いちいちクライマックスが思い返され、
あー、もー、泣かすー とか思いながら
繰り返しリピートして、一人レクイエムしました。



余談ですがこのCD、「魂のルフラン」はもとより、「心よ原始に戻れ」も、
すごい「母」的な存在というか、
「私に還りなさい」(※ルフラン) とか 「この腕の中でもう眠りなさい」(※心よ〜) とか、なんかこう、包括者としての母っていうんですか、そういう視点に立った歌だと思うんですけど、(だから「魂のルフラン」は好きだけど、結構怖い歌だなあと思う。)
デスノートに、そういう「母」的な視点って一切ないんでね。
「この腕の中で」って誰の腕? 竜崎?
そんな都合のいい竜崎はいねえよ、というわけで、ライトも照も、抱き取ってくれる人は誰ひとりいないわけですが。「無」だから。そこがまたいいんで。けど、こういう歌もしみるわ…と思った午後でした。



しかしながら余談2、エヴァはずっと「母」、包括者であり、絶対者であり、ときに存在の扼殺者である「母」のイメージにずっと貫かれてきたわけですが、それが結局どんなふうに作品で帰結したのか、一体なんだったのか、ってことが、いまだに、よく理解できていません。だめじゃないか。
もう一回エヴァ見ようかしらん… とくに劇場版。(←見るの?)