ものすごい嫌なのに。

デスノ最新話(59話)までのネタバレを含みます。)















読売新聞の3月11日付けの夕刊で、
文化欄のコラムにデスノートが取り上げられ(題「生き返らないデス」)、
その中に「竜崎が死んだ」と書かれていた件。
また、22日の同紙夕刊のお詫び記事(題「単行本派」の方への弁解デス」)。
夕刊でのネタバレについてはずっと考えていて、
でも、今日このお詫び記事の切り抜きを先輩にもらって読んで、
図書館で11日の夕刊の当該記事を読んで、また改めて「お詫び」を読んで、

このものすごい嫌さを、一体、どう表現していいか、言葉を探して途方にくれてしまう。
11日の記事を読む限り、果たして、「竜崎が死んだ」と書くことは必要だったのか。
そして、「お詫び」の文には、すごく強く「違うんじゃないか、それ」と思った。謝っているのか、これで。
謝ったふうでいながら、なにか伝わってこない。その実、全然悪いとは思っていないんじゃないだろうか、と思う。そのように私には読める。




11日の夕刊に「竜崎が死んだ」と書いた記事が出た翌日、
読売をとっているS先輩からその記事のことを聞いた。(私は他新聞)
S先輩はコミックス派の読者で、ジャンプは買ってないけどデスノ大好きな妙齢の女子。

朝、会社に行くと、先輩がものすごい沈んでて、


S先輩:「モリちゃん、私のことを思って、言わないでいてくれたんだね…」
 私 :「えっ… なんのことですか!?」
S先輩:「 L、死んだんでしょー…」


「えっ、どうして知ってるんですか?」と聞いたら、
「昨日の夕刊に出てた…」というじゃないですか。漫画のコラムがあって、そこに、
はっきりと「竜崎が死んだ」って書いてあったらしい。
私は、もうびっくりして、「そりゃ、ちょっと、ひどすぎるんじゃないか」と思った。
どうしてそんなことを、新聞の夕刊なんていうメディアに載せる必要があるのかと。

先輩は「知りたくなかった…」と言っていた。
いつも読んでいるコラムだけど、「デスノート」が取り上げられていたから、嬉しくてウキウキと読んだんだって。そしたら、いきなり、「竜崎が死んだ」って言われ。もう、ものすごくがっかりして、私の家に電話しかけたらしい。
・・・そりゃ、がっかりするだろうと、思うよ。
「がっかり」じゃ言い尽くせない。
私だったら、絶対に、壮絶に嫌だよそんなの。
なんで、夕刊でそんなこと知らされなきゃいけないわけ。
自衛の仕様もないじゃない。知るか、知らずにいるか、それすらも選べない。
ネットだったら、バレが落ちてるってこと予測して、自衛も出来る。でも、ふつうに夜、新聞の夕刊読んでて、デスノのコラムがあって、そりゃ、好きだったら、「あっ☆」って思って読むさ。で、それで、限りなく作品の肝なオチをばらされるんだよ。あのさ。この「ええっ…」って気持、がっかりした気持、悲しさ、憤り、いったいどうしたらいいんだろうね。毎回コミックスが出るのを楽しみに待ってて、本誌が気になるにしてもコミックスと間があいちゃってるし、ああ、早く続き読みたいなあ…! って思ってた気持、どうしてくれるんだろうね。


11日の記事を読んだ上で言うけれど、
この記事の要旨を述べるのに、
「竜崎が死んだ」ことを言う必要はなかったし、言ってはいけなかったと思う。

そして「お詫び」の記事。(2005年3月22日読売新聞夕刊「手帳」欄)

 (中略)
 お叱りの趣旨はほぼ一致して、「まだ単行本化されてない部分の重要な展開を明かすのはネタバレで、著しく興をそがれた」というものだった。これにはうーんとうなった。当該部分はジャンプ誌上で数週間前に掲載されている。300万部出ている日本一の部数の漫画誌に載ったのだから、「ネタバレ」とは思いも寄らなかったというのが正直な気持ちだ。

この記者は、

300万部出ている日本一の部数の漫画誌に載ったのだから、「ネタバレ」とは思いも寄らなかったというのが正直な気持ち

だそうで、

子供のころから、漫画の主舞台は「雑誌」だと思ってきた。例えば「巨人の星」や「あしたのジョー」の連載に毎週ドキドキハラハラしながら、友人たちと今週の回や来週以後の展開について、ああだこうだと議論するのが何よりの楽しみだった。雑誌に載ることで、漫画は読者に「共有」されると信じてきた。

という。


この方にとって、

コミック単行本はある意味、感動を何度も再確認するために買うものだった。

そうだ。


・・・だから?  って思う。
それは、あなたの勝手な思い込みじゃないのか。

雑誌に載ったら、世に出たら、なんだって、どんな形でだって言っていいのか。
そういうことじゃないだろう。そういう問題じゃないはずだ。
「共有」されたから、言っていい?
それって、一体何だ。
漫画は雑誌に載ったら「共有」されるのか。そんなの随分、おめでたい考えだなって思う。
読まれてはじめて、漫画は「共有」されるんじゃないのか。
そして、読む時期や、読む形には、人それぞれの好みや理由や場合があるんじゃないのか。

デスノは文字が多いし中身が濃いから、まとめてコミックで読みたい、と思う人だっているだろう。何ヶ月かに一回のコミックスを、それこそ「ドキドキハラハラしながら」待っていて、「友人たちと今度の巻や次の巻以降の展開について、ああだこうだと議論する」のを、何より楽しみにしている人だっているだろう。どうして想像したり、尊重したりできないのだろう。

また、記事には

当該部分はジャンプ誌上で数週間前に掲載されている。

とあるが、
それはちょっとずるい言い方だと思う。
Lが椅子からひっくり返って「死んだ…!?」と思わされたのは、2月21日の号。この58話では、まだ、「どうなったんだ?」というニュアンスが強かった。
そして、Lが「死んだ」とはっきり描かれたのが2月28日の号。記者がどのような認識でいたのかは分からないが、私などは、Lの死が本決まりになったのは、2月28日の号と認識している。そうすると、この記事が夕刊に出た3月11日はその11日後になる。確かにLの転落の描写は記事の18日前で、それが「死」だったわけだが、「死にました」と描かれたのは、記事の11日前だったのだ。だから、ここは、「数週間前」と書いていて割と以前の出来事のようだけれど、マックスで二週間と四日、ミニマムでは「十日ほど前」となる。そうなると、かなり直近の展開を書いたことが分かる。それで「共有された」と言われても… と思う。そのときその号を読んでいた、限られた人にしか知られていないものを、「共有」といっていいものなのか。それが、本当に、読売新聞の夕刊で通用するほどの「共通」なのか。


じゃあ、ジャンプで読んでる人だけのために、夕刊にこの記事を書いたわけなのか。そうでないなら、なぜ、違う立場で読む人に配慮をしなかったのか。
コミックで読んでる人が、これからデスノートを楽しもうとしている人たちが、これを知って、一体どういう気持ちになるか。本当に、考えもしないで書いたんですね。私は、それが、一番頭にきてしようがない。どうして、そこに想像力が及ばないんだ。それでいいわけ。「300万部の雑誌に載った」から、もう「共有」されていて、「『ネタバレ』とは思いも寄らなかった」。そんな、認識で、いいわけですか。


あのさ、雑誌に載ったから言っていい、とか、そういうことじゃないんだよね。
問題は、「何を言ってしまったのか」ということなんだよね。
「先が読めない」「どうなるかわからない」それがデスノートの大きな面白さだと思う。デスノの肝といってもいいと思う。キラが勝ち抜くか。Lが、ねじ伏せるか。「竜崎の行く末」なんて、限りなく、この漫画の核心じゃないですか。それを言ってしまって、未読の人からどれだけ著しく興を、スリルを、楽しさを奪ってしまうか、少し考えたら分かることなんじゃないのか。そして、それを奪い去る権利なんて、一体誰にあるっていうんだ。


しかし、漫画文化の基礎はやはり雑誌であり、雑誌を読む人があまりに減ってはいい漫画は生まれない、ということは言わせてほしい。


謝ってるようで謝ってない、と思うのはこういう箇所で、
それは、確かに言っていることは分からなくもない。雑誌の低迷はすごく深刻な問題だ。

でも、ここで、これを言うのか。

「言わせてほしい」、っていうけど、いや、ここでは聞きたくない、と正直思う。
だから何? って思う。
つまり、こういうことだよね。
ネタバレがそんなに嫌なら、おまえら本誌を読めよ、って。
でも、そんなこと、一体誰に言えるの?
私なんかも、そんなにハマってるのに、この人は雑誌では読まないんだなあ… なんて、不思議に思うときもある。デスノートに限らず。
でも、そんなこと、人それぞれじゃないか? 人それぞれでいいんじゃないのか?
どうも、雑誌で追いかけることこそ漫画好きの道、みたいに説かれているふうで、すごく不快な気持になる。
バレが嫌なくらい好きなら、もう、雑誌を読んでいるはず。そうでないなら、ある程度のネタバレはやむなしと思うべき? なにか、そういう論法にもとれる。
だけど、コミックス派だって、ネタバレが嫌な人は、嫌なのだ。
ネタバレ、というから話が揶揄的になるのだろうか?
オチは自分自身で読みたい、好きな漫画をまっさらに楽しみたいという気持、とでも言えばいいのだろうか。
コミックス派と雑誌派の、「楽しみにしている度合い」なんて比較は出来ない。コミックスから入ってしまった場合、雑誌の進行に接続できなくて、雑誌を読めない場合だって多い。漫画喫茶や図書館に行く人は行くだろうけど、そうしない人だってきっとずっと多い。
だいたい、毎週ジャンプを買ってる人ならともかく、雑誌で「読んで」いるだけの読者が、コミックス派に比して優良な読者であるとも限らないと思う。というか、甚だ疑問だ。
「ジャンプ」を手に取っていても、好きな漫画しか読まなくて、その上、雑誌で読んで知っているから、コミックスを買うのに鈍くなる。おのが身を振り返れば。
雑誌そのものの吸引力と、作品それ自体の吸引力とは、また別の話だろう。
だから、みんながデスノを雑誌で読むようになることが、それほど単純に雑誌の興隆につながるとは思えない。
だいたい、物語の核心を言ってしまった上で、「もっと雑誌を読め」と説くなど、それじゃ、まるで脅迫じゃないか。盗人たけだけしいのではないですか、と思う。確信犯でした、とでもいうつもりなのか。
なぜここで「もっと雑誌を読んでもいいと思う」みたいな話になるのか意味不明だし、問題をすりかえている。
こういう事を本当に主張したいのならば、別の場を借りて行うべきだった。



物語のオチや核心を、先に知らされるのが平気な人もいるし、絶対嫌だという人もいる。人それぞれだ。だからこそ、選べるようであってほしい。知りたくない人が、普通に自衛して、知らずにすむようであってほしい。夕刊は、「普通の自衛」の部類じゃないって思う。もしかしたら、これからは、安心して新聞も読めなくなるのかもしれない。それがいやなら、毎週毎月、好きな漫画は雑誌で最新話をチェックしなけりゃいけなくなるのかもしれない。そんなのってどうだ。灰色だ。とてもやってられない。
好きな漫画を、好きなスパンで楽しみたい。せめて、「コミックス」まではありにしてほしい。せめて〜してほしい、って、お願いしなけりゃいけないのか。せめて、新聞でのそんな無差別的な暴露は、勘弁してほしいなと心底思う。