今年を表す漢字


今年、2005年の漢字は「愛」だそうで。


誰が決めたか存じませんが、正直、「正気か!?」と思いましたけどね。
この状況下で、何が、「愛」? 


私は、今年の漢字は「」だと思うよ。
まだ続き、日本が片棒を担いでる戦争という暴力の「暴」、
荒れ狂った地震・暴風雨の「暴」、
暴走し、脱線した電車の「暴」、
首相の暴挙の「暴」、
小さい子供達に向けられた卑劣な暴力の「暴」、
暴挙としか思えない、巨大な偽造の「暴」……


一体、何が、「愛」だったのかしら。
めでたいことがあったのも認めよう。愛・地球博だったのも知ってる。だけど、惨事にあった人たちにとって、「愛」という字はあまりに遠く、あいまいすぎて、まるで、救いにはならないものだと思う。ここで今年の漢字が「愛」だって、それって、実は、何も言ってないことと等しいんじゃないかと思う。「愛」では、国民の心には、今のこの状況には、コミットし得ない。私はそう思うし、一体、「愛」なんていう言葉を選んで、何か暗部を押し隠そうとしているように思えてしまう。凄く、こちらに対して、背を向けたセレクトに見える。ニュースで、「愛」って見たときに、あ、逃げる気なんだ、って私は思った。それで、すごく、見ていてやる気をなくしたし、やる方ない思いになった。一体、何が、「愛」だったんだろう。


思ってみれば、かつて「毒」という言葉が選ばれた年があって、
でも、そのときは「毒」を選べるほど、まだ、世の中に元気があったんだと思う。
まだ、「何か」に対して、希望も期待も持っていた。それがあったからこそ「毒」を選べた。
でも、今はもう、マイナスの言葉なんか選べない気運になってるんだと思う。世の中の空気的に。そこまで、煮詰まってきちゃってるんだと思う。そう思ったとき、すごく暗澹たる気持ちになって、そしてうそ寒くなった。
心楽しくないことを言うには、気力がいる。そして、それを受け入れる周囲の度量がいる。だけど、今のこの国では、そうした気持ちの張りとか、余裕とか、将来への展望とか、そういうものさえ乏しくなってしまったのか。確かに今、マイナスな言葉を選んだら、それが弾みになるんじゃなくて、もう、際限なく、ずーーーんと沈み込んでいってしまいそう。そんな寒気を感じるから、きっと、「愛」なんて言葉が選ばれたんだろう。


正直に言って、「愛」なんていう言葉が選ばれる状況は異常だと思う。
相当、異様だと思う。言うなれば危険である。他の年ならまだしも、今年ほど酷いことの続いた年も、珍しかったんじゃないだろうか? 天災に継ぐ天災、人災に告ぐ人災で、社会不安ここに極まれりという状況じゃないか。ここで、いくら「世の中に希望を持とう」という狙いだからといって、「愛」なんて目くらまし的な言葉を選んで・選ばれて、いるような状況は、異常だと思う。心楽しくないのは分かるけど、こういうときに、そんな、「愛」なんて選んだらいけなかったと思う。
周囲に、惨事が渦巻いているのに、問題が山積みになっているのに、それを直視しようとせずに、なにか、心楽しいことばかり唱えて、盛り上がっているような状況は危険である。私は、何の主義者でもないけど、めちゃくちゃ、危険だと思うよ。すらりと描ける道筋は、右傾化、国粋主義化、社会不安を、何か、もっと大きなイデオロギーで粉飾しようとする動き、そしてそれを利用し、取り込もうとする動き。これじゃん?
私は、自分の愛する家族、まだ見ぬ子供、彼らが戦争にとられていくのなんか絶対にごめんこうむりたいけれど、この恐ろしい想像がひどい飛躍だなんて、今、全然思えない。すごく近くに、ありうる事として、想像している。恐ろしいと感じる。願わくばいつまでも空想のままで済むといい。私の願いは、自分の野心と身近な人の幸福・安全のほかには、きっと、これだけだと思う。戦争は嫌だ。それにずるずるとつながっていくであろう、世の中のあらゆる動きも、そこに繋がって行きかねないのなら断固拒否したい。時代遅れと識者が言っても、貫くべきことは存在すると思う。歴史を見ていると、「そんなことになるとは思ってなかったのに」ってことが、とても多いのに驚く。だから、「今がそうじゃない」とは言えない。いつだって言えない。今のこの日本の現在は、相当にやばいって私は思う。とりあえず三十年後、四十年後も私は生きている予定だから、今の政治家のおじさん・おじいさん達が死んじゃった後でも、私はこの国に生きている予定で余生もまだまだあるから、そのときに、困らないように、今、したいものだ。諸事多忙でも、ずっと、自分の頭で考えていたい。そして、人の言うことも聞いていたい。目を離さないで世の中を見ていたい。自分の意見を育てたい。来年はもっと、それに努力する一年にしたいと思う。