たとえば君がいるだけで心が

出張行ってきた。

往復の新幹線ではちょこっと書類読んだ以外、弁当食べた他はなにもせず、およそ五時間… 爆睡する以外は、いや、眠りながらも、Lについて考えていました。座席にしゃがんでみたくなる衝動をこらえるのに苦労した!!(こらえろよ、そこは!!)
Lのことを考えていれば、東京‐京都間など、あっという間だということがわかって驚く。Lについてつらつら考えていただけで、何も読まず何も聞かず、よくもまあ持ったものだよ… まいったネ!!

「ヘテロセクシャル刷り込み」(大幅改稿)

今日はいろいろとLさんのセクシーな部分について妄想がでてきてしまい困りました。
この場合、たとえばダーマツを絡めてみてもいいんだけど、(L松田どこか惹かれるので)、どうも、男性同士の絡みという方向に、自然に思考を進めることが出来ません。
意味深な雰囲気になって何かお互い「・・・」という性的な沈黙を抱き、ああどうしよう何をやっているんだろう俺はどうしちゃったんだろう何か不思議な情動に衝き動かされてあるべき軌道から自分が逸れて、ああ、ああ、・・・みたいな展開になる、ここまでは、考えが進む。
でも、二人抱き合ってみたり触れてみたりして、その後。
その後が、どうしても、考えが続かない。
[前段]→[行為] この、二つの間に橋がかからない。
雰囲気やなし崩しでは、男同士は、そう簡単には交渉に及べないのではないかと思ってしまう。女子とだったら、引っかかりなく、その先にいくのを描ける。しかし、男同士だったらそこに、なにか、非常に特別なもの、言えば決意のようなものが、なければならないのではないかと。そうでないのなら嘘くさいというか、不自然なのではないかと。

これは、ある種の偏見なのだろうかと、帰路、ふと思いました。

そのキャラクターの性嗜好のなかに、同性愛への親和性が存在するということと、自分がゲイ的(あるいはバイ的)な性嗜好を持っているというキャラクター自身の「自覚」の有無とは、関わりがない。自覚はなくとも、そうした親和性・志向性をもっていることはありうる。

たとえば、キャラクター当人が「自分はゲイ的な性嗜好を持っている」という自覚を持っていた場合、作品の中でも、それは「そういうアイデンティティを持っている人物」として描かれる。たとえば『ニューヨーク・ニューヨーク』のケインやメル。『カリフォルニア物語』のイーヴ、アレックス、リロイ。自分で明言するシーンはなかったと思うが『NANA』の銀平ちゃん(ブラストのマネージャー)も、「そのように」描かれている。

で、思った。そういうキャラというのは、始めから、後で分る場合もあるけど、説明を付されて出てくる。この人のセクシャリティは、こうよ、と示されて登場する。彼らは、そのように振る舞い、作品中で、セクシャリティに関して特別な雰囲気を帯びて行動する。『ニューヨーク・ニューヨーク』は漫画そのものがゲイ漫画なので少し事情が異なるが、『カリフォルニア物語』のイーヴ、アレックス、リロイの存在感・作品での影響の及ぼし方は、明らかに、インディアンやブッチ、テレンスのそれとは色彩が違う。
ゲイ的である、ということは、そのキャラにとって、「特筆されるべき情報」なのだ。そのキャラの造形のために、特に描写がさかれるべき要素であり、彼らは、ある種特別なキャラクターといっていい。

では、圧倒的多数である「その他のキャラ」、セクシャリティに関する描写・説明が特に与えられていないキャラクターは、どうなのだろう。

彼らのセクシャリティについては、「何も言われていない」。そして、「何も言われていない」以上、彼らは、「ヘテロセクシャルである」と前提されている。

そのように共通認識されているのではないかと、少なくとも、自分はそのように認識していると、今日、私は、ハッと気が付いたのだった。
「何も言及されていない」=「ヘテロセクシャルである」 この図式、疑うことすらしたことのない、この思い込み。自分の読み方、理解の流れに思い至って、それこそ目からウロコが落ちる思いがした。

本当は、広義のセクシャリティに対して、ひとかけらも情報が与えられていない、などということはない。
後にも触れるが、たとえば少年ジャンプの漫画からは、性的要素が意図的に削り取られている。しかしそのなかでも、たとえば女子とのやりとりでドキッとしたり、ヒロインに恋心を持っていたり、パンチラや谷間チラリに気をとられてみたり、そうした女子への性嗜好の存在は割と多く描かれている。最近では、とみに、お色気導入が進んでもいる。
しかしながら、女性に対する性的嗜好を持っているからといって、男性への性嗜好が存在しない、ということには、ならない。
だが、そうであるのに、いつの間にか、それが「ない」かのように、「ない」ことが自明のことであるかのように、読み取っていっている自分に気が付く。

だれも、そのキャラクターがゲイ的志向を「持ってない」なんて、一言もいっていない。でも、説明がされてない以上、それらしい描写が与えられていない以上、それは、「ヘテロセクシャルだ」ということになる。そのように認識される。それがさも「普通」のことであるかのように。
だがそれは単に「前提」であり「共通認識」にすぎないはずなのだ。そこに疑いを抱き、その「読み・読ませ」の図式に思いを致すことすらないほどに、それは自明のこととして浸透している。恐ろしいほど当たり前の顔をして流通している。その刷り込みに思い至り、今日、少なからずぞっとした。

ジャンプに描き出されているのは、性的要素を意図して削った、「ふつうの男の子」の世界。
でも、だからこそ、「性的嗜好に言及のないキャラ」→「ヘテロセクシャル」という、自明の前提が問題になってくる。
そこに描き出される「ふつうの男の子の世界」、それは、「ヘテロセクシャルの男の子の世界」なのだ。私の目は、「何も言われていない」のに、その世界をそのように読みとる。
そしてその読解は、「普通であること」=「ヘテロセクシャルだ」という意識を、私自身が強く内面化していることを示す。その規範を、自分のものとして、深く受け入れていることを、如実に実証している。だから、私はぞっとする。意識的になっているつもりでいても、まだ、自分自身がこんなにも深く偏見にとらわれていると。そんな、強固な刷り込みの中に、気づきもせず身を沈めていたと。

これは、単に、ゲイ人口に対してヘテロ人口が圧倒的に多数派だから、社会の趨勢を反映して…ということではないと思う。数の多い・少ないの問題ではない。それは、「常識的」「普通」という概念に基づく「価値判断」なのだ。
商業誌たるジャンプは多数派の方に寄り添っているのだ、というようなことではない。そもそも、編集する側・作り手の側に、「ゲイ志向を持つ少年」に届けようという視点は、存在しないのではないだろうか。なぜなら、それは、作り手が想定する「ふつうの」男の子ではないからだ。

考えてみれば、不思議な話だと思う。毎号毎号、おびただしい数の男子達が少年ジャンプには登場しているのに、そのなかに、男性を愛する性的自覚を持ち、リアルに葛藤したり前進したりするキャラクターの顔を、思い浮かべることが出来ない。
いわゆる「おかま(※差別語である)キャラ」というのは出てくる。たとえば『ONE PIECE』のボン・クレーなど。そうしたキャラは、とても特異な、トリッキーな存在として出てくる。
しかし、そうした「特殊な」キャラクターを除けば、主要キャラクター以外の登場人物たちに対する「セクシャリティに関わる描写」はおおむね欠落している。

ジャンプの漫画は「そういう」漫画ではない、ということもあるかとは思う。小学生をターゲットに含む「少年誌」でもあり、男子の性を描くことより、もっと違った、男子の精神の世界、闘い・成長を描いた漫画がジャンプの漫画であり、それが一つの王道としての少年漫画なのだ、ということだとは思う。生身としての性と、ジャンプ漫画の世界とは共存できない、ということだろうか。

しかし、性描写の欠落そのものが、「自動的に」そのキャラが「ヘテロセクシャルであるという認識」へと回収されていくこと、そこには多大なバイアスが作用しているのではないかと思った。
そして、それが、「普通の」男子の世界として描き出され、しかも魅力的に描き出されて、読む側の私もそれを魅力的な世界だと感じていること。そこに、何か、うそ寒さのようなものを感じた。
それは私の目の問題でもある。そして、生み手の側にも、負うところはあるのだと思う。少年漫画、少年誌、という、媒体が含み持つ問題も感じた。

余談

そう考えてくると、少女漫画の世界で、男性キャラクターのセクシャリティのゆらぎが多く見られることを改めて感じる。少女漫画のお家芸といってもいいかもしれない。たとえ単にファッションとして扱っている作品もあるにせよ、少女漫画はそうした存在を好んで描いている。別段、性意識に対してラジカルであろうとしていない作品の中にも、わりかし珍しくもなく、「このひとのセクシャリティヘテロではないな」「このひとはゲイなんだな」という人物が出てくる。矢沢あいご近所物語』他の如月星次さん、『のだめカンタービレ』の高橋くんもそうだし、本当に枚挙に暇がない。
仮にそれが、ゲイの人に対する勝手な憧れとかミーハー心だったとしても、私は、そのキャラクターが登場してくること、その存在感、それ自体に意味があると思う。登場してこなければ、その描かれ方に対して、批判や違和感を持つことすらもできないと思うからだ。



性的嗜好に特に言及のないキャラクターに対して、自分が、検討する意識すら持たずに「自然に」ヘテロだと認識していたことに、自分自身が驚いた。それはもう、意識野に上ってくるまでもなく「自然に」認識していた。
本当なら、別に、割合として「ゲイ:バイ:ヘテロ=1:1:1」であっても、数字の上だけでいえばおかしくはないはずなのに。
その読みは、テキストでの描き方にも負うところはあると思うけれど、どうなんだろう。このキャラがゲイでもバイでも、違和感なくすんなりとはまる、というようには、殆どの漫画の作品世界は作られていないのではないか。あるいは、作者の意識とはまた別に、作品世界そのものには、本当は、性的志向の幅を許容する幅があるのかもしれない。でも、それを思い描く私の意識そのものが、そこに違和感を覚えてしまう。え、そんな、登場人物がゲイ的とかバイ的な人ばっかりって、おかしくない?不自然じゃん?って思えてしまう。それはあるトリッキーな世界になると思うのだけど、それを「トリッキーな世界」と感じること自体、やっぱり、ある意味で偏見なのだろう。

また、原作に男×男を見出す「読み」は、「そこにある自明のヘテロ認識」を最初から突き崩した読みなのかどうかを考えた。考えてみて、それはやっぱり、「最初からそれを看破してセクシャリティの多様性を批判的に追求する」ということとは、また違うのではないかと思った。やはり前提にはヘテロ認識・ヘテロ読解があり、その一次的な読みを土台にして、自分の二次的テキストを構築していくことに、主眼があるのではないかと思ったからだ。でも、男×男という二次テキストを、自身で構築できるということでは、自分で構築することに抵抗感を覚える私よりもずっと、もしかして、性に対するある偏見や先入観が少ないのかもしれないと感じた。
私自身の、頑迷なる性意識。カップリングのことを考えるといつも、そのことを、痛烈に再確認する。

また、ふと思ったのだけど、「原作のふたりそのものがゲイなのだ、原作そのものが、すでに『そう』なのだ」という「読み」の主張を耳にすることもあるが、それは、自明のものとして存在するヘテロ規範を、その「読み」によって看破していることになるのだろうか。それとも、カップリング眼が発達しすぎて、もはや触れるものすべてをそう読み取ってしまう、ということなのだろうか。同じ結論を主張していても、そこには、とてつもなく大きな開きがあるように思う。多分後者かなあー、と私は思うが、どうなんだろう。



思うまま考えるまま綴りましたが、今後も、よく検討し考察してみなければ、と思います。今日またジャンプを読んでみて、色々と、一概には言い切れないが… と思ったりもしました。
実は、昨日アップしたものを大幅に改稿しました。今現在、自分の思うところがよりきちんと伝わるよう書き直した次第です。ですがまだ、きっと色々、穴や抜けや矛盾、独断専行・誤読があると思います。今後も考えていきたいと思います。読んでくださり、ありがとうございました。それから、昨日の文は、文章としてあまりに拙く、恥ずかしい限りでした。お読みになられた方には、お詫びを申し上げます。



「Lと松田さんが事に及ぶっていうのは、少なくとも自分で書くのは、なんだか抵抗あるなあ〜」から始まった思考だったのに、自身のこんな偏見に思いが至るとは、不思議な気持ちです。でも今日私の目から落ちたうろこはとても大きかった。
こういうことがあるから、自分痛いなあと思っていても、何か作品にはまり込んだり色々想像を逞しくしたり、ああでもない、こうでもないと、行間を考えたりいっそ自分の解釈を作り上げてしまったりするのは、やめられません。そうやって自分自身を築いてきたようにも思う。
もしかしたら他の多くの人にとっては、とっくに気が付いていたり、取るに足らなかったり、トートロジーめいていたり、する考えかもしれないと思う。でも、少なくとも私にとっては、とても大きな気がつきだった。それだけでも休みを返上して京都へ出張した甲斐があったと思います。
やっぱり、自分は、まだまだ偏見のかたまりだ、と思った。そうでなくなる日など、来ないとは分っているけど、だからこそ自分が偏見に満ち満ちていることを自覚したい。そして、できるだけそれを減らしていくように、多くの目を持てるように、これからもっともっと努力していかなければと思う。