よしながふみ「きのう何食べた?」――ゲイスタデイーズやおい、のことと合わせて






隠しても隠しても、にじみ出る頭の良さ。



よしながふみの特徴を一言でいうと、これだと思う。
この人は実は、自分が「頭がいい」っていうことをあまり良いことだと思っていなく、
できれば、「そこ」で目立ちたくない、と思っている、
でも、どうしても、書くものからあふれ出してしまう―― 読んでいていつも、そう感じているのですが。
その「頭の良さ」が一番、「きのう何食べた?」には、濃く表れていると思う。
この洗練度、構成力、そして男男カプ語りの技術
どれをとっても見事で、はっきりいって、ケチのつけようがない。



この、あまりの完成度の高さが実は苦手で、モーニングで毎回読んでいたのにコミックは買ってませんでした。
今まで、よしながふみ的な「クレバー」な感じは、びしびしと感じれど、いやだと思ったことはなかった。
でも、この作品の連載第一回目を読んだとき、なんだか「うっ…」となったというか、
あまりにも洗練されすぎているところが、平たく言うと「鼻についた」。
その苦手意識で、連載も恐る恐る読み(ファンって、こういうところが馬鹿だね〜・笑)、
コミックスもつい最近買った体たらくだが、やっぱり面白く、「何回でも読んでしまう」。



この構成の技術は、やっぱり、「愛がなくても食っていけます」で培われたんだろうな、と思う。
食べ物のことと、日常とを一体化して、漫画に落とし込む技術が磨かれているのを感じるし、
「愛がなくても〜」のときは「食べ物と日常の漫画」の段階だったものが、
きのう何食べた?」になると、そこにさらに、「自分の問題意識」を織り込むことが可能になっている。
それが話の中で邪魔にならず、しかも話として面白く作ってあるのはすごくて、
よしながふみの漫画においての、ひとつの達成ではないかと思う。



以前から作品を読んで感じてきたことではあるが、よしながふみは対談集の中で、
どうして男同士の話に惹かれるのか、というくだりで、
「私がゲイを書きたいのは、初めから虐げられている人たちの話が書きたいからだ」と語っていた。
とくに社会的な問題のない男女の恋愛に比して、性的なマイノリティで、あきらかに不利であるゲイの人たちのことが書きたいと。
それはフェミニズム意識とも関わっていて… という流れであった。
対談集のその個所を読んで、ああ、やっぱり、「そう」なんだ… と、非常に腑に落ちる思いがした。




あまりその手のものを読まない人にはピンと来ないかもしれないが、
その系統は、やおいには綿々とあって、
私はそれを、個人的に、「ゲイスタディーやおい」と読んでいる。(私の勝手な造語です。)
つまり、作品において、「ゲイスタディーズ」をやる、ということである。



BLとしての商業性(ライトで、エロくて、ハッピーエンドで)を要求される商業作品よりも、
二次創作系の作品の方が、その度合いが濃くなるかもしれない。
「ゲイ」の生活を調べ、ゲイ雑誌を参考にし、社会学や心理学の資料にもあたり、非常に綿密に、「ゲイとして生活し、恋愛する彼ら」を描き出す。
ここで特徴的なのは、ああ、すごく調べて書いてるんだなあ・・・ ということが分かるように書いてあるということ。
キャラクターの人間描写や心理描写にも勿論非常にウエイトはある。が、それ以上に、というか、それと並行して、というか、「ゲイの生活」がこの人は描きたいんだなあ、これが、この人の「書きたいこと」なんだなあ… というのが、ものすごく伝わってくるのだ。書き手の、執心の置き所とでもいうのだろうか。
「男同士」だということでキャラクターはものすごく悩み、カミングアウトとか、親との軋轢、友人たちとの関わり方、同居をして勃発するいろんなトラブル・・・  そういったことを、「ものすごく現実味を持って描こうとする姿勢、あるいは関心」とでもいえばいいのだろうか。
「ゲイスタディーズ」と名づけるのがしっくりくるような世界が、そこには展開しているのだった。



私が、「ゲイスタディーやおい」を読んで感じることは、
書き手は、自分の恋愛、および結婚のシミュレーションを、そこで行なっているのではないか、ということだった。
それは、やおいをめぐる古い議論にあったような、カップリングへの自己同一化とか、実際の男女関係へのモラトリアム、ひいては成熟拒否の心理といったことが言いたいのではない。
そんなに単純な問題ではないし、それに私の実感では、やおいを書いたり享受したりすることと、実際の恋愛・結婚の進捗度は、ほぼ全く相関がない。やおいを享受するのがモラトリアムだという考えは今はもう廃れて久しいと思うが、そんな識者の論が寝ぼけて響くほど、女子(あるいは女性)の現実は「待ったなし」である。
やおいを生み出す、享受する側は、「現実」をもうとうに知っていて、そして、ある意味では知りすぎている。
私が感じるシミュレーション感は、そうした地平にあっての、「シミュレーション」である。
それは決して、現実からの逃避ではない。むしろ、「現実」と共存するためにこそ、必要とされるプロセスである。



「ゲイスタディーやおい」から私の感じること、それは、女性の内界にとって、恋愛・同棲・結婚というのが、いかに巨大なものであるか、ということである。女性の人生は常に選択を迫られている。男性もそうだけれども、女性の場合にはその選択の局面に伴って、「自分を変える」という仕儀がともなっている。恋愛はまだ、比較的スムーズかもしれない。が、次はたとえば、結婚するか、しないか。結婚するなら、仕事を辞めるのか、続けるのか。そして子供を産むか、産まないか。一人目を産んだら、二人目も産むかどうか。恋愛の進行が、そのまま、何十年にも及ぶ、選択の繰り返しにつながる。
そのことをきっと、実体験のある・なしを問わず、女性は「知って」いるのだと思う。
そういった巨大な現実を――実際に、恋愛関係や、結婚を考えるような局面に立てばなおさら巨大な現実を――、書き手は、「ゲイスタディーやおい」の中で、解体していっているのではないだろうか。
また、「ゲイスタディーやおい」を書きたい、と思う動機は、そこにあるのではないのだろうか。
それは、巨大な現実と共存していくためのシミュレーションであり、
また、自分の損なわれた何か、飢えている何か、困惑している何かを埋めるためのセラピーであり、
また、現実はそうはなりえないであろう何か、実際に「そうはならなかった」何かを、物語テキストの中で回復したり、完全化させようとする試みではないのだろうか。
恋愛から始まり、結婚で終わる、長く巨大な道程について、書き手は、ひとつひとつのパーツを自分の手で触れ、吟味し、そしてまた世界に配置するように、ひとつずつ、駒をゆっくりと進めていくように、時に、どうしてそんなに、と感じるほどの細かさで、作品世界を作り上げていく。そして読み手は、その世界観に共鳴して、自分の求める要素を吸収していく。
リアルなゲイ生活を描いたやおい、が熱く好まれ、愛されるのは、単に「それが好き」というのはもちろんあるとしても、一方では、こうしたことが関わり合っているのではないかと思うのだった。



私自身は、「ゲイスタディーやおい」には批判的だったし、今も、どこかで、懐疑的な気持ちを捨てることはできない。
どうしてそれを描くのかは分かるし、描くのも、読むのも、全く自由だと思う。
ただ、私個人の考えに照らすなら、それは、「ゲイの生活」を、高所からもてあそんでいるように、どうしても思えてしまうのだった。
ゲイ恋愛を「パラダイス視」することにも懐疑的だし(だが、その「過酷さ」すら「パラダイス」として転化して自己を癒さなければならないほど、現実が屈折を要請しているのもまた事実なのだ)、あるいはそうやって、箱庭の中で「ゲイ」を操作するということにも、一抹の疑問を感じるのだった。いくら「実情」を調べたとしてもそれは、自分のために借りてきた「対象」であって、その彼らの「問題」を作中で「解放」してあげる(作品によっては暫定的「答え」であるにせよ)というのは、一面では、ずいぶんおごった手つきであるともいえる。
「ゲイスタディーやおい」を読むと、なんともいえない気持ちになって、なんだか、「盗人たけだけしい」という言葉が浮かんでくるのだった。二次創作なら文脈を盗み、キャラクターを盗み、そして自分自身は陰に隠れてキャラクターを「しあわせ」にしてあげる。ひどいことを書いているけれども自分自身にも向かう言葉なのだ。自分自身を鑑みても、そこに、自分の「救済」が、確かに含まれているのだった。けれども、それでは、自分自身の「リブ」はいったいどこにいったのか。自分のリブを棚上げにして、相手を「リブしてあげる」というのは、ずいぶん傲慢なことではないのだろうか。



私がやおいを読みながら、あるいは書きながら、いつも捨てきれないのは、そうした疑問、ないしは煩悶である。
やおいは女性(もっというと、「男性」以外)のものだが、それは、最も強固なミソジニー女性嫌悪)の表出だと私は思う。
女性の居所のない、女性不在の「しあわせ」。それを読んで、女性が「しあわせ」になるということ。
そうした構図が共感と熱狂を以って循環し、半永続的に続いているほど、女性の現実は痛みに満ちている。




よしながふみの「きのう何食べた?」が、私のいう「ゲイスタディーやおい」である、という主張をしたいわけではない。
むしろ、別種のものだと私は思っている。
けれども、違うものだけれども、水脈は通じている。その長い地層をくぐって、その先に湧き出してきた「表現」であると思う。どうしても「ゲイスタディーズ」に向かっていく気持ち、それを「書きたい」、つまり自分の中で「再構成したい」と思う気持ち、そういう「やおい」、そういったものの集積がなかったら、この作品は成立していないだろうと思う。作家の個人史的にも、現代漫画の状況としても。




先に述べてきたような、「ゲイスタディーやおい」へのやむにやまれぬ煩悶があったから、はじめて「きのう何食べた?」を読んだときに、あっ、またこの手の…? と、拒否反応が出たのは事実である。鼻につく、と感じたのも、そういう気持ちとは切り離せない。
私はよしながふみの「愛すべき女たち」がやっぱり一番心を打たれるから、女性のことを書いてほしくて、「きのう何食べた?」の連載を読むにつけ、なんだか複雑というか、やっぱり男同士の話ですか…?  的な(ほとんど「難くせ」である!)、そんな不満を持っていた。
でもそれは狭隘な気持ちだったと思う。



私の考えが一番大きく変わったのは、「大奥」で、家光が女性の姿で現れたときだ。(※「メロディ」本誌掲載持のこと)
あれを見た時に、なんともいえなく鳥肌が立って、しばらく茫然自失した。ものすごく、何かが動かされるのを感じて、そして、やっぱりやってくれた、と、思ったのだった。(勝手に)
「大奥」はフェミ漫画だし(勝手に認定するけど、それは疑いがない)、確実に、私の「何か」を解放してくれる。けれども、女のリブ、に限定するのは狭い話で、「大奥」でよしながふみは、「女の生も、男の生も、それぞれに辛い」ということを描いている。私は、そう思って読んでいる。
私の「不満」は、とても解消されて、ああ、自分は、狭い考えだった、よしながふみ先生ごめんなさい、という気持ちになった。



作家は、「大奥」でそれを描き、そして「きのう何食べた?」では、また違ったテーマを書いている。
きのう何食べた?」で描かれているものは、おそらくよしながふみの中に深く根ざしているテーマだし、きっと、のって書いているんだろうなと思う。エピソードや、セリフ、キャラクターのひとつひとつに、その含蓄や、「考えてきた量」が現れている。コミックスを読み返したことでそれがさらに分かって、いま、私は、よしながふみの今の連載状況をかつてなく賞賛したいような、同時代に生きててよかった、というような、満ち足りた、穏やかなフィーバー状態に陥っているのだった。自分でも軽くキモい。というか、書いてきて思ったけど、自分、よしながふみにいろいろ託しすぎ!! でも・・・ 作家を、作品を好きになるってそういうことじゃありませんか・・・ とうそぶいて、筆を置くことにいたします。直近のモーニングも、面白かったですね。