8人の女たち


一番好きな映画はなんですか、と聞かれたら、「8人の女たち」と答えるくらい、この作品が好きです。
で、今日、久々にDVDで見返した。面白かった・・・
何がいいって、全てがいいんですが、8人の、まったくタイプの違う女性をずーっと見ていられるだけで面白い。
このフランソワ・オゾン監督のまなざしがとても不思議で、「これを、男性が撮ったなんて・・・」と思う一方、「いや、男性でなければ、これは撮れなかっただろうな」と、すぐに思わされる。


内容は、グランド・ホテル形式のミステリーで、「雪で閉ざされたお屋敷で起こる殺人事件」というもの。
その舞台を借りながら、「8人」の女性を通して、描き出されていく諸々。
心理劇、かつ人間劇で、人間劇といっても「ヒューマニティーもの」ではなく、「女性であるところの人間」を、見つめようとするアプローチが面白い。哲学的になりすぎないところが優れていて、なまの感じ、血の通っている感覚、思考が、映し出されているところがとてもいい。


カトリーヌ・ドヌーヴと、ファニー・アルダンが、やっぱり、圧巻。
エマニュエル・ベアールも大好きです。
本当、50代になってファニー・アルダンのようになっているには、どういう人生を送っていったらいいのでしょうか。
とりあえず、化粧を落としてから寝ろよという話ですよね、すみません・・・! と、TVの前で猛省しました(昨晩サボった)


あと、この映画の中で強烈に印象深いシーンを、再び見られて感慨深かった。
地味で、瘦せぎすで、メガネでお堅いオーギュスティーヌ(主人公の叔母。40歳くらい?)が、お色気ムンムンのメイド、ルイーズ(趣味:勤め先の家庭を崩壊させること。でも本心はレズビアン 女優はエマニュエル・ベアール)に、映画の中盤を過ぎたくらいで、ためらいつつ尋ねるわけですよ。

「ねえ、どうすれば『誘惑』できるの?」


ここでの、ルイーズの答えが次。

「女のセクシーさっていうのは学ぶものじゃないの。あるか、ないかよ


・・・これを最初に聞いた時は、まるで、鈍器で殴られたかのような衝撃を受けたものでした。
そうかっ・・・!(ガクリ) 的な。
わたし、初めてこれを見たときはまだ大学生で、忘れもしない、正月に実家の茶の間で見たんですよね。超もっさい格好で、コタツに入って見てたわけ。明らかに「絶無・・・!」なわけですよ。セクシーさとか。
で、今また再度見直してみて、自分・・・あれから5年経ってますけど、どんだけ変わってますかと。あいかわらず「ない」じゃないですかと。なぜ俺はあんな無駄な時間を・・・! と、三井スラムダンク)ばりに、激しく問いかけるわけですよ。ああ、涙でポカリの缶を開けられない…!



ともかく、久々にファニー・アルダンを見て癒された・・・ マジで・・・
社会的な達成という面では、「ああ30になる! なっちゃう! どうしよう!!!!!」的な焦りがめちゃくちゃあるんですけど、一方、「女」側面ではあんまりそういうのがなくて、・・・あれ、だから、縁遠いのか?? と、ハタと(笑) ふつう逆だよ。むしろ、ウチの親族が焦ってるよ(笑)


いやでも、男からしたらどうかしらんけど、その年代年代の女性の美しさってやっぱり、あるじゃん。あると思うんよ。最近は急速に忘れ去られつつある概念だと思うけど、「年相応」って、すっごく、大事なことだと思うんですよ。あらゆる意味で。
久しぶりにこの作品を見て、年をとるのはわるくない、全くわるくない・・・ と、すごく思った。
50歳にならなきゃできない格好ってのもあると思うんですよね。ああ、早くああいう風に髪を巻いてみたいなー、とか。ネッカチーフで頭を覆ってみたいなー、とか。そのために必要なもの=財力、ですね。よし、がんばるぞ、と、人生にやる気を得ました。


「いつまでも『女子』でいいじゃん!」というのが時代の一つの流れだけど(それは女性にとってのひとつの解放ですね)、節目節目で折り目をつけていくように、「階段」を上がっていくことも、いいよな、大事なことだよな、としみじみ思うこの頃です。




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余談ながら、自分のオタク生活と照らすと(すいません、地続きなんで…)、そういう意味では、「腐女子」の「女子」が、自分には、正直言ってきつい(笑)。
ジョシという響きに、すでに、打ちのめされている自分がいます。あの・・・もう、「女子」適応年齢じゃないでしょ? みたいな。女、かもしれないけど、子、ではないでしょ? 的な。
私が、どうも「腐女子」ていう言葉とか、括りがしっくりこないなー と思うのには、それも結構あるよなとよく思う。まずもって、自分から、「腐」がついてるとはいえ「女子」ですと自称するのが、すごい言いづらいし、言いたいと、あんまり思わない。(「ユリイカ」で上野先生が書いてたこともよくわかるけど、でもな…と思う。フェミの戦略としては、そうなるんだろうな、と思うけど)だからって、貴腐人なら平気かとかそういう話でもないんですけど。(オチョウフジンとかね・笑)




ファニー・アルダンエマニュエル・ベアールの、「恍惚」も面白いです。

 やおいが、「分らない言葉」であることの意味/「腐女子・トラブル」の実相

「好き」を扱う言説には力関係が関わっている。
社会の中で歓迎される「好き」と、歓迎されない「好き」とがあって、
屈託なく表明することのできる「好き」と、それが許されない「好き」とが、しっかりと存在している。そこに、力関係の強弱がある。
そして、「弱い」部類の「好き」をもっている人間はどうするかというと、
言っても歓迎されないために、むしろ傷つくことが多い、ああ、ここではこれを「好き」って言ったらいけないんだな… ということを「学んで」いく。内向していく。クローズドになっていく。
出版業界ないしコンテンツ業界においては、「腐女子」はドル箱化しつつあるけれども、実際、世の中規模でみたら、
「女の」「オタクの」「好き」なんていうものは、いわば底辺レベルのものだろう。


腐女子」がもぐってきた理由というものは、それが分かっていたのでそうしていた、ということじゃないんだろうか。
腐女子をめぐる軸は二つあり、そこが混在するので戦争が生じるわけだが、
ひとつは「版権パロディ」の軸、もうひとつは「男性同士の同性愛文脈愛好」の軸である。
版権パロディをやっていても、男性同士の同性愛の文脈には興味がない人もいるし、逆に、本棚ひと竿分のJUNE・やおい・BLコレクションを持っていても、二次創作を読む/書くことには全く興味がない人もいる。厳密には、前者を腐女子とは呼ばないのではないかと思うが、いまこんなに「腐女子」=女子オタクのように語られている世の中で、そこから「締め出される」というのも、当事者にとっては煩わしいことだ。
ともあれ、「版権パロディ」の軸から見ても、「男性同士の同性愛文脈愛好」の軸から見ても、どう考えても世の中に受け入れられるものではないということで、賢く身を隠していた、ということだろう。


けれども、こうやって「腐女子」、ひいては女子オタクの存在が世の中に喧伝されていくと、いやでも外の目にさらされることになる。
本になり、ニュースサイトや大手ブログが現れ、そのエッセンスが外へ流れ出ていく。腐女子というタームで物を売る、言説を売る、自分を売ることは、時代に即したビジネス・モデルになった。
腐女子の萌え」を教え、その「萌え方」すら手ほどきしてあげて、腐女子との「付き合い方」「出会い方」まで教える。そういう、ナビゲーション・コンテンツというべきものが莫大に増えた。
腐女子であるわたし」を世に喧伝する、そういうスタイルも増えた。
だが、そうした場で供給され、外部が群がってきているものは実は、長い年月醸成されてきた「女子オタク」というエリアの、「うわずみ」の部分にすぎない。


それが「分かって」、また「分からせて」いったいどうするというのだろう。
そのうわずみの向こうには、きっと理解すらすることもできない、おそらく理解を求めてもいない、深い水脈がたゆたっているというのに。
腐女子」エリアに外部が大挙してくる動き、また内部から地図を与え、ナビをしてあげる動き、そういうものに、「腐女子」エリアの当事者が「やってられない」という気持ちを抱くのは、そうした徒労感によるものだろう。


「他に開かれる言葉」になった瞬間に、やおいは効力を失くす。
そういう思いがする。
「他に開かれる言葉」というのは、一見「そうあるべきもの」「正しいもの」であるようで、その逆、「社会の文脈に屈する」ということではないのだろうか。特に、「やおい」というものにとっては、「世の中の『正しさ』の列に敷き入れられる」、そういうことであるような気がする。男の言葉、政治家の言葉、国家の言葉、そういうものの中に引き入れられることが、本当に意味があることなのか。「みんなに分かっていただく」それが、本当に意味のあることなのか。
やおいに通じる」ということと、「やおいである」ということとは、少し意味の違うことだ。
よしながふみは、対談集「あの人とここだけのおしゃべり」の中で、市川ジュンの『陽の末裔』を「やおい」だといった。けれども、それでは、こんなに男×男ばかりが隆盛していることの説明がつかない。もっと厳密な言い方が必要で、私は『陽の末裔』あるいは『ガラスの仮面』は「やおいと通じるもの」、『のだめカンタービレ』は、「やおいの先にあるもの」だと考えている。


逆を言えば、「外の人間には分からない」からこそ、やおいは効力をもつのではないだろうか。
男にはわからない、政治家にはわからない、国家にはわからない。
その価値観とは真逆のものである。
だからこそ、やおいは死なず、流行り廃りを越えても、息を続けていくのではないだろうか。
今はもう珍しくもなくなった、昨今の、「腐女子」エリア参入の動きは、
「なにもかも分らなくては気が済まない」
「自分たちを、カヤの外にしている文化は許せない」
そういった、「世の中」の、傲慢な好奇心の表れなのではないかという気がしている。
そして「世の中」とは、つまり「男」のことだ。


どうも面白いのが、周りの女の人たちというのは、「腐女子」などどうでもよさそうなのだ。
「ねえ、腐女子ってなに?」「最近腐女子ってあるんでしょ?」「森井さんも腐女子なの??」と聞いてくるのは、必ず、男の方だ。そのときの、その人間に潜むある期待値、目をきらきらさせてさえいる感じ、それはいったい何なのだろうと、いつも不快だった。でもそれは言葉を与えれば、セクシャリティの問題と知らずに、考えもせずに踏み込んでくる、無知という名の傲慢な好奇心だ。
それを問題に感じ、腐女子を正しく理解してもらうためにと、腐女子エリアへのナビをする当事者もいる。それは私には、過剰適応の風景に見える。腐女子エリアに注がれる男オタクの目、それが拡大しての各方位メディアからの注目は、まさしく、ジュディス・バトラーのいうところの「トラブル」である。「ジェンダー・トラブル」の一証明としての「腐女子・トラブル」に、いま、このエリアは見舞われている。
それに対応する言葉を、しかし、このエリアはどれほど培っているか?
即応して発する言葉そのものが、「外の言葉」の文脈に回収されていき、過剰適応に拍車をかけるというパラドクスが存在している。
たとえば、性暴力の被害体験について言葉を発するときに、それをエロとして収奪されてしまうのと似た状況が、存在してはいないだろうか。


早くこのお祭り騒ぎが終わってくれないものかと思うが、
一度ここまで大きくなった規模感が、そのまま収束するとも思えない。
腐女子」が注目を浴びたことで、私にとってスムーズになったことなど、考えてみればひとつもなかった。
腐女子は死ね」だの「腐女子自重」だのと、言われうる裾野が広がったというだけの話だ。作り手側が勝手に「男性キャラクター同士のエモーショナルな要素」を投入してくるものを、「腐女子のせいで」と言われる、非難の様式が強固になっただけのことだ。
この騒ぎが過ぎ去っても、痕跡は残るのだろうと思う。

思うのは、早く飽きてくれないだろうか・・・ ということだ。
先日、池袋のまんだらけに行った際、あきらかに冷やかしと分かる、三人組の男のオタクがいた。
棚を探すでもなく、突っ立って、にやにやと笑いながら、店内を見渡していた。
はっきり言って、ものすごく異様だった。
異質な存在だった。そして、嘲笑と悪意に満ちていた。
あの人たちはなんだったんだろう。
腐女子というもの」を、観察したかったのだろうか。
正直に言って、そういう目線というものは、女子更衣室に隠しマイクを仕掛けるような、女子ならではのプライバシーを覗き見ようとするような、卑劣なものだと思う。
それはセクハラ、なのに。
腐女子」だから、そういう冷やかしをしに行っても構わないと、彼らは思っているのだ。


それは本当に、一握りだけのことなのだろうか?
私が見た、彼らが、図抜けて恥知らずだったのだろうか?
そんなことはないような気がする。
こういう有形無形の「視線」と、おり合っていかねばならないのは、本当にストレスだ。
しかも、過去に「おたく」がバッシングされて世間から注目を浴びた時と違って、
おもにオタクの中で、「男のオタク」が、その「視線」の側に回っているのだから、
やりきれないことこの上がない。
腐女子フィーバーともいうべきこの状況は、もしかしたら、
「カテゴリ化して、もの扱いのできる相手」を得たという、
男のカタルシスに対して、最も寄与しているのかもしれない。

 受・攻・萌えは「寓意」である


キャラクターについて空想話をするとき、「100%、その説がリアル」だと思ってしゃべっているわけじゃないんですよね。
ひとつの「寓意」なんですよね。

なので、巨大な「たとえ」なもので、真面目に「それはない」って言われても、
「ないって言われても、たとえだもの…」って、正直、思います。

で、思うことは、自分が考えたこともないから「それはない」っていうのは、違うんじゃないのかなー、と。
「わからない」のと「それはない」のは、似てるけど全然ちがうんじゃないのかな、ということです。
なんつか、この人のどこが素敵なのか分からない。でも友達は、すごくこの人が好きみたい。
で、そのときに「それはない」って言っちまったら・・・ 戦争だろうがっ・・・! って思うんですが、どうですか。
どうして、この人がイエス・キリストを信じているのか分からない。でも、友達はすごく信仰心が厚いみたい。
で、そのときに「それはない」って言っちまったら・・・ 宗教戦争だろうがっ・・・!! って思う。
たとえは大きいけど、そういう問題じゃないかなー と、思う。
「ない」って言われても、「ある」ので、困ります、しかも、「ある」ことを、否定することができません・・・ という部分に関しては、まさに、そういう問題なんじゃないだろうか。
そしてそれは、セクシュアリティの取り扱いに似ている。
いくら、同性を好きになる気持ちを、「ない」って言われても。私の中には「ある」ので、そして、それが「ある」ということが「私」なので、「ない」と言われても困ります。傷つきます。・・・ そういう問題だと思う。

かわいいってなんですか


さて、私の会社はほとんどが男性でありまして、平均年齢がぐっと高く、しかも、9割以上が転職歴ゼロという・・・ つまるところ、典型的・日本の企業でございます。
女子総合職もいるにはいるけど、圧倒的に、女子は一般職。
私の部署はまだ女子率が高いけど、他部署の会議に出席したりすると、気がつくと女子は私ひとりだなんてこともしばしば。ていうか、いつも? 多い時で、二人、下手すりゃひとりですよ、オールウェイズ。


そして、「若手」といったら三十代半ば・・・というそんな社の中じゃポイズン、「二十歳代で女子」な存在は希少種。
そんで、なにが出来するかといいますと、おじさん・おにいさんたちに「かわいい」「かわいいね〜」とか、言われたりするわけですよ。
自慢だと思ってもらうと非常に困るが、この「かわいい」て、言われる方はとても、ふくざつ。
かわいいって、かわいいって・・・なんですか???


まずその1、「かわいい」ゆう言葉を、不当に浴びているような気がする! それ、あくまで、相対性「かわいい」であって・・ この状況下だからであって、あの、ホント、かわいいとかいうアレじゃないですからっ・・・ という、忸怩たる思いがするわけよね。
そんでその2、「かわいい」って言われたり、あきらかに特別扱いされてたりするのが、なんつうか、居心地が悪いんだわよ。なんつか、身の置き所がない感じがする。
女の子ですみません的な、そんな気持になっちゃうのは、どうして?


「かわいい」って言われるたびに複雑ながら、でもなー、誰にもそう言われないよりはありがたいのかなー、とか、向こうに悪気はないのかしらん、とか。そんなことを考えて、困ったように笑ってみたり・・・
「女性にはサービス」って余分にお菓子をもらったり、ありがたいけど、どこかで、複雑。


本当は、余分にお菓子をくれるとか、それって厳密には性差別。
大学でも卒業してからも、フェミを学んできた私にしてみたら、フェミ・コード(FC)がチカッと点滅する。
でも、向こうにしてみたら、まったく悪気はないわけで。それどころか、ありがたい心づかいなわけで。
フェミニズムは「イズム」であって、それはあくまでも「思想」。
だけど私が生きているのは、「現実」で、
確かに救済であるはずのフェミニズムを抱いて、だけど苦しむのは、
思想と現実との間に、つねに、乖離が存在することの苦しみだ。


「女性にはサービス」と言って向こうが出してきたお菓子を、「性差別だからいりません」って、はねつけることなんかできない。できないし、まったく、したくない。
それは、コミュニケーションを拒絶することになるから。
「かわいい」といわれて「うっ」と思う、自分のフェミよりも、
その「本意」みたいなものを、くみ取って大事にして(せざるをえなくて?)、
私は、「困ったように笑って」いる。


どんなつもりで、向こうは、「かわいい」ていうんだろう。
きっと、深い意味はないんだし、リップサービスなんだろう。
だけど、「かわいい」て言っても言わなくても、少なくても私は、なんにも変わりませんけど。
こういうときいっつも思うのは、『働きマン』におけるユミちゃんの、
「かわいがってもらっとけばいいんです」という、金言。
働きマン』はいまいちシンパシーをもちきれないけど、この言葉は、しみる。
かわいがってもらっておく、という言葉には、真実とフェミとニヒリズムがあるように思う。
ありがたく、かわいがってもらっておく。
かわいがってもらえるということは、本当はとても、私が思っている以上にとても、
ありがたいことだよね。
この落ち込みはもしかしたら、
その好意を過分に感じて、とても、申し訳なくなっているのかもしれない。

社長になるか、社長夫人になるか

それが問題だ。



っというのは、斎藤美奈子『モダンガール論』(最高。)のキャッチコピーですけれども、
まさしく、それが問題だ。
私など、もっぱら「社長」になりたい性格の持ち主なわけですが。


このたび、「社長夫人になりませんか?」という縁談を頂いてしまいました。
どんだけ…!!!


ちょっともう、ウケる。
そして、先方の年収、五億。ぐらつくわ…!!(笑)
仕事上の知り合いの人の、そのまたお知り合いというルートでございまして、
若くして社長になったもののまだ嫁さんがいないっていうんですね。
そんで、仕事上の知人・某さんが
「ぜひ! ぜひ、森井さんをオススメしたいっ…!!!」
っていうんですけど、
その思い入れは、どこからっ…!?


買って頂いているのはありがたいんですが(でも、「何を」買ってもらっているかは不明)
ぶっちゃけ、「どうしてそうなったんですかっ?」っていうのを、素朴にお聞きしたい。
てか、わたし、最早ぴちぴちギャルではないにせよ、まだ、若い気でいたんですけれどもね。
世の中的に、27歳つうと、トウがたっている部類なんですかね。
森井さんもギリギリじゃーん? くっつけちゃえ! YEAH! 的な?(笑)
セイセーイ…
たしかに、「30を過ぎた花嫁は可愛くない」みたいな意見も聞きますけども(で、こういうこと言うのって年配のおばさんなのよね)、それ、完全に印象批判じゃないですか。
29と30がいかほど違うのか、視認できるのかっていう話。
たしかに、「その年齢でそのドレスは苦しいっ…!」っていう事実はあるけども、それは個体差というか、衣装が似合う・似合わないの話でしょ。「歳相応」っていうあたりを踏み間違えちゃったネ、っていうことで、御歳のせいじゃないわよね。


で、私としては、結婚するとしても30過ぎる気満々だったわけですけども、
そっかー、世の中としては、そうじゃないのかー、
もしや、「売れ残りつつある感じ」なのかー? と、考えさせられた次第。


あのう、社長夫人になっちゃったら、カラオケで「ロッキンポ殺し」とか歌えないんじゃないでしょうか。
よもや「不勃起日本!!」とか「ケツ毛に引火!!」とか、叫べないんじゃないでしょうか。
ここ叫ぶの、大好き(笑) 
営業時のわたくしは、ちょっとも、本性を出しておりませんのに。どこが、どのへんがっ…!
 と、考えるほど気になるよ、某さん。どうして、森井に白羽の矢を? というか、私、貴方の方が好みですよ、某さん(笑)。貴方が50代&既婚だからこそ引き下がってますけれども、某さん(笑)。


だいいち、私、結婚するために高等教育を受けてきたわけじゃないのよね。と、ちょっと真面目に、原点に立ち返った次第。
だけれども、要望されるうちが花なのか? とか。
縁談が来るたびに・・・
いろいろ、考えさせられちゃいますねえ・・・

『NANA』論〜ハチの「空白」と消費、「ふつう」であることの痛み

昨日のテキストでも書いたけれど、
私くらいの年代は、とっても、先行きに対する不安感が強いよね…と感じる。
何かもう、絶望や、諦めから、まず始まっている感がある。
そして、その心の隙間を、圧倒的な商品情報、「広告」が埋めてくる。


自分が「どうにかなる」気がしない。いつも漠然と不安。その不安を、消費が埋めてくれる。
「消費」という形で、社会参加をする。
それが、とくに、若い層の「かたち」になっているのではないかと思います。
「仕事」を介して、「理想的な社会参加」が出来ない場合には、特に、それが強まると思う。


それを、見事に言い当てたのが、『NANA』だったのではないかと思う。


ハチ(小松奈々)は、消費に生きる女の子である。最初の頃は、特にそれが顕著だ。
そのハチが、バイト先をクビになって、街なかの噴水に座ってひとり、缶コーヒーを握り、うなだれてるシーンがある。
ハチはモノローグする。


 のどが渇いたら、110円でコーヒーは飲める。
 でも、私はお洒落なカフェで、お茶をするのが好き。


これほど、真理を言い当ている言葉はないんじゃないか。
何かを「飲む」だけだったら、本当に、缶飲料のコーヒーでいい。でも、「お洒落なカフェでお茶」を、したい。それは、そこにまつわる付加価値、つまり「イメージ」を消費するということ。そして、それを介して、社会に参加する、自分というものを示す、ということ。
そうか、それが「消費」なんだ、と、「わかった!」と、叫びたい思いがした。


ハチは独白を続ける。
旅行がしたい、車の免許がとりたい、最新の携帯に替えたい。
だから働かなきゃ。
「そのためだと思えば楽しいじゃない」


でも、ハチには、「ここから動き出す力さえ」湧いてこない。


私はこの場面がとても好きで、心に突き刺さるシーンだ。
この場面は、
「消費だけでは、人間は生きていけない」ということを、
この上なく端的に、描き出した場面だと思う。それも現代性を持って。
欲しいものが沢山あって、それにお金を遣うために働く。
でも。
「そのためだと思えば楽しいじゃない」と、自分に言い聞かせるハチは、
真剣な顔で唇を噛んで、涙ぐんでいる。いつも能天気で、泣くのも恋愛のことばかり、というハチが、ここで、初めてと言っていいくらいの、真剣な表情を見せる。


そしてハチは、「ナナが羨ましい」と思う。
ナナは、ハチとは正反対で、「自分の野望を実現する」ために生きている。
消費には目もくれず、日々、意思を実行している。
それをハチは「夢」と呼び、それは、とても眩しくハチの目に映っている。
私も、ナナのように「夢」がほしい、なにかに夢中になりたい、とハチは思う。
それは、「なにかを生み出すために、動かすために、作り出すために、夢中になりたい」。そのことへの強い希求だ。
とりわけナナの夢は、「シンガー」というクリエイター、自分を表現しながら、何かを生み出す職業で、その意味でもハチにとっては、眩しく輝いて見える。なにかを「消費してばかり」の自分と、まったく、対極の存在だと。
ハチは自分が、「からっぽ」だと感じる。ナナのような才能も、内に充溢する情熱もない、と。


そんな「ハチ」と「ナナ」とが、無数に混在しているのがこの世の中で、だからこそ『NANA』は、広く、女子に支持されているんだと思う。
無数の「ハチ」の空白を、「消費」の視点から照らし出した。その意味で、『NANA』は稀有な漫画だと思う。
(ちなみに、『ハッピーマニア』は、恋愛の面での「空白」を描いて見せた作品だと思う。)
矢沢あいは、やっぱりすごいよな、と思う。
私は、ナナよりもハチの方にずっとシンパシーを感じていて、
とくにこの場面を境に、ハチのことが、とても好きになった。
自分には才能がない。自分は空っぽだ。その気持はとてもとてもリアルで、ものすごくよく、「わかる」。
その絶望がどれだけ苦しいか。そして、「ナナ」の存在を横目にしながらも、それでもやってかなきゃいけない。それが、どういうことか。
「ふつう」であることの痛みを、『NANA』は描いてみせた。
なんにも生み出せない。買い物をすることが、消費をすることが、「創造的行為」であるところの、ふつうの、「わたし」。
でも、それが、大多数の、「私」の姿なんじゃないかと思う。


漫画家として早くに頭角を現して、トップクリエイターとして走ってきた矢沢あいが、いまリアルに「ハチ」を描いているのは、とても興味深いことだと思う。
(かつてから、『ご近所物語』のバディ子のような、「うまくやれないキャラ」への愛や理解はあって、魅力的なキャラを描いてきたけれども、ハチの造形はもう一段階、奥に進んでいる気がする。)
そして、一見、夢と意志とに溢れ、才能にも恵まれているナナが、決して幸せになっていかないように見えるのは、
「夢だけでは生きていけない」ということをも、同時に、示唆しているように思う。
消費だけでは生きていけない。だけど、夢だけでも生きていけない。
『NANA』のメディアミックスとしての売り方は、どうも、「夢を追い、わたしらしく生きる」ことをメッセージとしていたように見える。映画・音楽の展開では、当然ながら「ミュージシャン」の切り口は大きいし、また、深夜アニメの「NANA」の枠には、専門学校のCMが結構なウエイトで入っていた。そこには、「ナナ的な生き方」を称揚する、という文脈が含まれていた。


けれど、漫画の『NANA』は、必ずしも、「夢を追いかけて生きるナナ」を、称揚すべき価値観として描いてはいない。ナナに憧れ、ほめたたえているのは、あくまでも「ハチ」である。ハチの目に映るナナは、眩しく、素晴らしい。だが、作家の筆には、ナナへの批評性が含まれている。ハチに対しても、ナナに対しても、その目線は平等に注がれている。ふたりは、等価なものとして描かれている。
ナナがメンタルが弱く、レンとの関係(ハチからすると、理想的な恋愛に見える)にも幾多の問題を含み、自らの病理を克服しきれない様子が描かれるのは、「必ずしも、ナナ的なものが素晴らしいというわけではない」という価値観を、作品が内包しているということだと思う。
ハチも情けないが、ナナも、ひとりの弱い者として存在している。


ハチの「ふつう」を描くためには、ナナの眩しい才能が必要だった。
ハチは恋愛命で、情にもろく、だめな子、というキャラクターだけれど、そういうハチが見せるタフさや、眩しさが、私はとても好きだ。
強さという点でいえば、ナナよりもずっと、ハチは強いのではないかという気がする。
ハチの空白が、どのように解決されていくのか、あるいは解決はしないのか、それを、とても楽しみに読んでいた。今のところ、それはどうも「子ども」という帰結に至っているようで、そうか、そこか… と、思わないでもない。
だけど、ハチが本来持っている、パワフルな慈愛のようなもの、愛すべきものを守ろうとする信念の強さからいくと、「子ども」という落としどころは、とても、心性に合っているような気がする。


ここも私の好きな場面だけれど、ハチが、出産のために帰った地元で、ナナの悪口が落書きされているのを見つけて、スプレー缶を買い込んで、それを塗りつぶすシーンがあった。
そのときのハチの顔も、恋愛の場面や、普段作りで見せる可愛さとは変わって、とても真剣な、「本気の表情」をしていた。それは愛らしいとは言いがたい表情で、怖いくらいの真摯さがあって、私は始め、それがハチだと分からなかった。壁にスプレーを吹き付けているカットだったので、「ナナの悪口を書いた本人が、さらに書き足しているのか?」と、思ったほどだ。(恥ずかしい話ですが…!)  それは、言うなら「おとこ前な顔」で、こういう良さを表現するのに「おとこ」という言葉を使うしかないのがなんとかならないのか、とつくづく思うのだが、適する語彙が他にない。とにかく、それは「真剣な人間の顔」で、とても、胸うたれる表情だった。
そのようにハチは、何かを守ろうとするとき、ものすごい力を発揮する人間である。その愛情の深さが、ナナの才能と、等価に評価されているのが、『NANA』の世界だと思う。
非常に「ふつう」で、輝かしい才能があるわけでなく(私は個人的には、ハチには料理の才能があると思う)、普通に「女の幸せ」を求めて、しかもプチセレブ志向で、夫の潤沢な収入で何不自由なく暮らす。それは、社会に自己を立てて、自立して生きるんだ、という価値観からすれば、まったく「だめ」なものなのかもしれない。
だけど、身近な人間を思いきり愛して、自分の適性で幸せを構築していく生き方も、それはそれで「良い」と、『NANA』の世界は、肯定をしているように思える。


これまでの矢沢作品の落としどころとして、最後は「夢に即する」というかたちが出てきていた。
天使なんかじゃない』では、翠はしっかり美術の教師になるし、『ご近所物語』はもっと顕著で、実果子は自分の夢のために、ツトムと離れて英国に留学する。「ご近所」の続編の『パラダイス・キス』では、主人公の紫はやはり、モデルの仕事を続けるため、留学する譲二と別れる決心をする。
これら三作品では、「社会的自立と絡んでの自己実現」が、みな、キーとなっていた。
けれども『NANA』で、ハチが「子ども」を選び、「家族を作っていくこと」を自分のやりたい事として据えて、そこに向かっていくのは、矢沢あいの世界においては或る意味「画期的」なことで、新たな広がりであると思う。
そして、夢を追いかけるナナが、おそらくその夢に挫折を強いられていくこと、まだ先は描かれていないけれども、ストレートな「成功」はないだろうことを考えると、『NANA』が一体どんな場所に向かっていくのか、とても楽しみなところである。


私の個人の希望では、最後はナナとハチとが、ちゃんともう一度出会って、対話をしてくれるといいな、と、祈る気持で思っている。

蘭&園子に思う



今作の「名探偵コナン・紺碧の棺(ジョリー・ロジャー)」は、
「蘭&園子」が熱い映画です。
南洋の孤島「神海島(こうみじま)」を舞台に、その島に伝わる「海賊の秘法伝説」を巡り、「宝探し」が展開していく。
そのなかで、この島に300年前、宝を隠したとされる女性の大海賊「アン&メアリー」の伝説と、現在の「蘭&園子」の絆が、強くクロスオーバーしていくという。
その過程が本当にすごくて、胸がギューッ!と熱くなりました。
テーマは、「背中をまかせられる相棒」!


これで、森井に感動するなって方が、無理って話です。
そうです。これです。私の見たかったものはこれだった。
「ちゃんと、そこに『女子』が居る、全人格的な愛と、情熱とリスペクトの絆、その物語」
これが、私が、飢えて、飢えて、どうしようもなかったもの。「やおい」では、届き得ぬ「女子」の世界。(※これについては、また改めて書きます)
こういう話が、見たかった…!!!!!
まさに、ガールズたちに見てほしい。これを子供の時期に見られたら、ほんとに、幸せだと思う。正直、今のお子達が羨ましいくらいです。きっと、一生レベルの栄養になる映画だと思います。
実際私は、これを見て、ものすごい衝撃と感動を受けた。
体じゅうの血が燃えて震えるような体験でした。
いくつになっても、リスタートの瞬間ってあるんだな…と思った。
そのくらいのインスピレーションがありました


脚本は前作と同じ柏原さんで、本気に、脚本が凄すぎます。 冒頭の20秒で、もう、「神だ…」と思いました。
私などが今更言うことじゃないのですが、
柏原さんは「太陽に吠えろ」や、アニメでは「ルパン三世」など錚々たる作品を手がけられ、そして、「あぶない刑事」などで「相棒(バディ)」をずっと描いてこられた方で、その柏原さんの筆で、今回の「蘭と園子のバディ・アクション」を見られたことは、本当に僥倖だったと思います。
前作の「探偵達の鎮魂歌」のときに、「今回の平次とコナンの間って…なんか、すごく、いいな」って思ってました。距離感が絶妙で、その距離の中にも「通じあってる感」があり、それがとても魅力的で、エロスがあった。「鎮魂歌」を見終えた後で脚本の柏原さんの経歴を知り、「あぶない刑事」を手がけられてたと知って、なるほど…! と、強く、納得させられたのですが。
今作、その叡智が「蘭&園子」のバディにも結集していて、本当に嬉しい思いになった。柏原さんの脚本だったからこそ、こんなに魅力的に描出しえたんだ、と思うし、同時に、ずっと男性の「バディ」を書いてこられた方が、女の子同士の「バディ」をも、こんなに面白く描けてしまうんだ…! というのはひとつの驚きと発見でもありました。


このように、エンタテイメントとして抜群に面白く、さらに、多様な示唆に富む今年のコナン映画でございます。本当、下手な実写より、百万倍面白いと感じる…!
今作のベースとなる「大海賊 アン&メアリ」と、「蘭&園子」の友情をクロスオーバーさせる、というアイディアは、原作の青山剛昌先生発だそうで(※映画パンフレットより)、剛昌先生、どんだけすごいんだ っていう話です。
そこに、山本監督、脚本の柏原さんと、錚々たる叡智が結集し… どんだけすごいんだ、コナン映画!
日本のアニメって、本当に凄いですね。
私が子供の頃は、「ドラえもん映画」で人生を学んだものでした。
もちろん、今の子供たちもそうなんでしょうが、それとは別にもう一線、毎年の「コナン映画」も、「人生を学ぶ映画」の領域に確実に入ってきていると感じます。
あと、まだ見たことはないのですが、「クレヨンしんちゃん」の劇場版も評価が高いですよね。
そして、この連休は、これら2本がいちどきに公開されており…
本当に、ぜいたくですよ、日本のアニメ文化は…!!


GW、「スパイダーマン3」も素晴らしいですが(これも感動した!)、
名探偵コナン・紺碧の棺(ジョリー・ロジャー)」も、ぜひ…!!!
「棺」が何だったのかが分かった瞬間、感動と号泣とが押し寄せます。まるで海のように。