続・モテについて――蝶々『小悪魔な女の作り方』


唐突だが、私は蝶々を尊敬している。
えっ、フェミと言っているくせに蝶々を? と思う人もいるかもしれない。
蝶々氏を説明するのも野暮なくらいだけど、
彼女は職業「小悪魔」、元銀座のナンバーワンホステスで、
現在は引退して執筆活動をはじめ、ワコールと組んで下着のプロデュースなどなどを展開している。


今日、立ち寄った本屋で「小悪魔な女の作り方」の文庫版が出ていたので、
久々に手に取って読んでみた。
相変わらず、うなずかされる。(短時間だが、熟読してしまった)
この本はズバリ「小悪魔」になるための本で、
そのテクニックという形でいろいろ書いてあるのだけれども、
総合すると、言いたいことは、
自分を安売りするな
この一言に尽きる。私はそう思う。


常々思うけれど、この国の女子は(どこの国の女子も?)、
自尊感情がとても低いのではないかと思うことがある。
普通に過ごして自然とそれが低くなってしまうように、仕向けられているのではないかと。
だから、自分に自信を持つことは、「身の程知らず」であるかのような。
でもそうじゃないよ! と蝶々は語っている。(と私は思う)
本当は一人一人、とても、魅力的なんだ。無二の価値があるよ。
そのメッセージが全体を貫いている。
モテるテクニック、と題して書いてあるいろいろなことも、
つきつめれば、人間関係の根本的な機微について語られていると思う。
人と関わり合うときに何が大切なのか。
人との関係を、魅力的に、かつ、自分を肯定しながら続けていくにはどうするのがいいのか。
そのことを、みっしりと語っている本だと思う。
(さすが、元NO.1ホステスの観察眼は凄いと思う。)


蝶々の本は、表層的なハウツー本ではなくて、
人とうまくやろうと思ったら、本当は、もっと色々と考えなくてはいけないよ、
常に、努力をしなくてはいけないよ、そういうことを、書いている本ではないかと思う。
それは、決して、恋愛のことだけとは限らない。
人から見たとき、自分がどう見えるのか。この振る舞いは、相手にとって、どう映るのか。
それは友達関係をはじめ、プライベートにとどまらず、人とのあらゆる関係に当てはまる。
たとえば、ありがとう、や、嬉しい、を、惜しみなく相手に伝える、とか。
奢ってもらった食事を、まずそうに食べないとか。
それは本当はテクニックでもなんでもなくて、
相手の、好意というサーブに答えるレシーブだし、マナーだともいえる。
そのときに、こうやっておけば喜ぶんでしょ、モテるんでしょ、みたいな気持でやっていたら、
自分自身も虚しいし、トータルとしての魅力も、下がっていくのではないかと思う。
蝶々の主張しているのは、その、真逆のことだと思う。


小悪魔は女の敵だといわれるけど、(猛禽には私も日々悩まされているけど、)
蝶々の言っていることは、実にフェミだと私は思う。
人生を楽しんでいる。その感じがとても素晴らしい。
蝶々はたぶん自分をフェミなんかだと思ってないだろうし、むしろフェミの対極にあると思っているだろう。
だけど、私にとってフェミとは、女が自分の性を肯定し、解放されて楽しく生きていくこと、だから、
私の基準では彼女は、ものすごくフェミなのだった。


はじめて、本屋で、「小悪魔な女の作り方」を手に取ったときのことを今でも覚えている。
そのときの私は、仕事も、私生活も、あらゆることが寒くて、とても「涸れた」状態だったと思う。
好意だと思って付き合っていた人の気持ちが、全然そうではなくてむしろ、そのお面をかぶった悪意だったことが分かって、
人との関わりについても、ものすごくどん底だった。自分の中に、人間不信が忍び込んでいた。人が怖かった。
それは、これまでに経験したことのない深さの孤独だった。そして私には、親友はいても、実際に抱きしめあったり、手をつなぎあったりすることのできる相手はいなかった。
場所は池袋の本屋で、こんなに人は溢れているのに、自分はたったひとりで、とても惨めだった。
そんなに疲れ切っていたから、普段なら決して手に取らないような、「モテ本」を手に取ってしまったのだと思う。
その本を読んで、私は、とても元気が出た。
ちょっとだけ読んでみるつもりが(それも、初めは揶揄半分で手に取ったのだ)、立ち尽くしたまま、熟読して完読してしまった。
「小悪魔な女の作り方」をガン読みしている、冴えない、疲れ切った女。どうなんだ(笑)、と後で思ったけど、そのときは全てふっ飛んでいた。
そのくらい集中して読んで、読み終わったとき、自分の気持ちは「アガって」いた。よし、やるぞ、とこぶしを握っていた。
この本は、私に情熱をくれた。よくないところを、たくさん気付かせてくれた。それは女として良くない、とかそういうことではなくて、むしろ、人とのかかわり方のクセのようなものだ。「だからダメだったのかーーーーー!!!!!!」と、目から、ウロコが何枚落ちたのか分からない。
その、古くなった角質層のようなものが取れて、あるいは、その存在が分かって、自分の心が、久々に新しい油を射されたかのように、動き出すのが分かった。その時もらった情熱が、私をここに運んでいる。今、振り返ってそう思う。


まさに、テキストとの一回的邂逅を果たしたわけだが、単なる恋愛マニュアルの本だったら、ここまで揺さぶられたかどうか。
たぶん、もっと落ち込んで終わっていただろうと思う。
出会えたことを感謝する、という気持にも、きっとならなかっただろう。
この本には、ものすごいパワーがある。
それは決して、自分のことだけ良ければいい、嘘をついてでも相手が手に入ればいい、というような、さもしいパワーではない。
自分を肯定し、周りを楽しませがら、全力で自分の幸せを追求する。
その精神が、私はとても好きだ。

モテについて

こちら(id:akio71:20081105:p2)を読んで、
いろいろと触発されたので書いてみる。


私は正直なところモテたい。モテたくて何が悪いの? と思う。
でもその場が不愉快だったということはよく分かる。
たぶん、「男に好かれなければ女としておしまい」みたいな空気が、
そしてそれが場を支配していることが、
ものすごーーーーーく嫌だったんだろうなと思う。(私でも、うえっ、ってしそう)
さて、私は門前市をなすくらいモテてみたい、とか思う瞬間もあるんだけれど(笑)、
そんなときいつも思い出すのは、大学の、或る同級生のことだ。


彼女は怖いくらい美しい人だった。アンバランスすれすれくらいに、大きな瞳をしていた。
当時、彼女より綺麗な芸能人を挙げろ、と言われても、ちょっと思いつかなかったくらいだ。
体形も160センチ弱で華奢で、頭もよく、性格はやや難ありな部分もあったが如才なく、
女友達もそれなりにいて、申し分のない感じの人だった。


彼女はめちゃくちゃにモテた。
彼女の前に立つと、文学部のイモな男どもは、赤面して金縛りにあっていた。
だけど彼女はその美しさのために、子供の頃から、いわば「悪目立ち」していた。
そう聞いて、一瞬でああ、そうだろうなと納得する。そのくらい圧倒的な美しさなのだ。
変な人に後をつけられるなどは「よくある話」で、
そういう、興味本位な人たち、魅せられる人たちを呼び寄せてしまう。
モテるせいで、女の子たちとうまくいかなくなったりもする。
大学時代も、サークルの卒業生にものすごーーーーーく執着されていて、
鎌倉の回らない寿司屋で寿司をおごってもらったのはいいけど、帰してもらえなくなりそうになったり、
そんなことばっかり起こっている様子だった。
彼女には婚約者と言っていいレベルの彼氏がいて、そんな男がいながら寿司をおごられにいくおまえはどうなんだ? という気がするし、
そういう性格が形成されたことと、恐ろしいくらいの美貌と、それによりモテるということと、どれが鶏であり、卵なのかは分からない。
ともあれ、彼女の姿を傍目に見ていて、思ったのは、
「モテるって大変すぎる・・・」
ということだった。


時に安野モヨ子の「美人画報」を読みながら、ああ、モテたい・・・ とふと呟いちゃった後、
いつも、その彼女のことが頭をよぎる。
私にとって、モテ、さらに「男に対するモテ」のひとつの象徴が彼女である。
そしてその像はいつも、「あんまり楽しそうには見えない」のだった。
本当にモテるということは、実は、危険と隣り合わせだということを、
20代の始めに、彼女を通して知った。


いきなり女として見られる、性的対象としてしか見られない、ということが、本当に心地がいいか。
性的関心をそそることは、本当は気持がいいものだ。そうでなければ、この世にお洒落なんか存在しない。
だから、自分の外見を、できれば評価されたい。あわよくば好かれたい。おっ、いい女だなって思ってほしい。
だけど、「本当にものすごくモテる」ということは、危険で、ストレスフルなことである。
この落差は、いったいなんだろう。


異性にモテるということは、不特定多数の関心を引き付けるということだ。
誰かに媚びて、その結果、好感を持ってもらうということとはまた違う。
モテることと、悪意は、常に隣り合わせにあるような気がする。
それは、関心=好意ではない、ということと、裏合わせの現象だ。
彼女は恐ろしくモテていたけれども、その分、頂けないような情念をも引き受けていた。
男性たちの劣情や妄想や、周りのそねみや、冷たい目線、とても温かいとは言えない、重く曇った、澱みのようなものすべて。


彼女を知ったからなのか、なんなのか、
モテるということは、諸行無常のようなものだ、という気がしている。
それは人知を超えていて、自分では選べない。圧倒的にモテてしまう、モテざるを得ないという人生がある。
だけどそれは、決してバラ色でない。
そして、たとえモテたからといって、多分、おおよそのことはどうにもならないのだ。


そんな本当のモテを目の当たりにしたせいか、
「あたしモテるのよ」アピールがしゃらくさく見えて仕方がない。
自慢できる程度のモテは、モテではないのかもしれない。
本当にモテるということは、もっと、人間の根幹を規定するようなものなのだ。
「あたし、男が切れたことなーい」 過去、そうアピってしまう知人がいた。
どうして、私モテています、ということによって、自分を上げていかなくてはならないのだろう。
その自意識は、さもしいものだと思う。
しかもそれは、モテ民同士でモテていることを共感するために言うのではなく、
いつも、格下と認められた民の前でだけ、アピールは吐かれている。


なぜ、男からの関心を、絶対的に通用する通貨のようにひけらかすのだろう。
男へのモテに汲々とするのも、モテアピールも、うんざりである。
そんなもので自意識を補完して、周りの女子より一段高くなったような気、になるのはわびしい。
幸せは、黙って、 一人でかみしめていればいいのではないか?
口ではどう言っても、たぶん、みな内心はモテたい、少なくとも、誰か一人くらいには好かれたいと、きっと、思っているんだから。
私はモテるんですアピールは、その根本的な希求を踏みにじっているから大嫌いだ。
お前は、誰にも愛されなかった時の、その孤独を忘れてしまったというのか?
それとも、今まで、一度もその孤独を感じたことはないのか?
誰かが震えているかもしれないその前で、「私は温かいのよ、へへーん」と言うことが、そんなに気持ちのいいことなのか。
そんな自意識ゲームをするくらいなら、まだ、「わたしモテたーい」と素直に叫んでいる方がいい。
そうだねえモテたいねえ、私もよ、と、それならうなずくことができる。



真実モテるということは恐ろしいことだと分かりながらも、
私は、モテてみたいなあ〜 と思ってしまう。
たぶん、「モテなくたって構わない」と言った方がフェミ的なんだろうけど、
私は、好感を持ってもらえたら嬉しいよなあと思う。
好感は心地よい。そしてヘテロ愛の私は、異性に愛される快感を否定することができない。
それは麻薬のように効いて、そして、有頂天になるくらいに感動的だ。
だけども、愛されなかったからといって、決して、不完全ではないということも分かっている。
ふたりでなければ不完全だというのは幻想である。
そして、女性として愛されなければ失格者だ、というのも、また幻想だ。
私は、私ひとりだけで既に、全き者、である。
だけど、全き者であるということは、孤独ではないということと同義ではない。
だから人と関わるし、できることなら好感がほしい。実のところ、人の好意以上に、心を温めるものはないような気がする。
あわよくば女性としてもモテたいけれど、
それ以上に、人間としてモテたいなあと考える。
分岐を間違えて、結果として、女性として好かれないことになってもやむをえない。(断腸の思いだが、やむをえない。)
その分、人間としての好感度を上げる努力はしたいと思う。人に好かれたいという自意識は、恥ずかしいものなのかもしれないけど。



さて人にモテるためにはなにをしなければならないか、といえば、
いかに相手に対して有益な時間を提供できるのか、ということに尽きてくると思う。
例えばあの彼女の場合は、その美しい容貌だけで、相手に満足をもたらしたということだ。
では私は、その代りに何が提供できるのか。奇跡的にも、私をモテさせてくれている大切な人々、
数少ないその人々のために、なにができるのか。
今日の私は、はたして、親友に快適な時間を提供できたのか。また会いたいと思えるような私だったのか。
そのことを振り返って反省したりする。
モテは本当は、いつも、一対一なのだと思う。
数があるほどいい、というのとは、いささか違うと思う。
私と、あなたの、一回的邂逅がいつも有意義であるかどうか。結局は、そのことに尽きると思う。
そういうモテに私はなりたい。(・・・というのは、過大な願いだけど。)

「女4人」というマジック――ドラマ「SCANDAL」開幕

TBSの日曜夜9時枠で始まった新ドラマ「SCANDAL」
鈴木京香さんの久々のドラマ(ですよね?)なので、超〜楽しみにしていました。
そればかりでなく、どうも、私は「女4人」という形式が、妙に好きらしい。
この、安定感というか、魅力ってなんなんだろうなー、と、最近考えている。
映画からド嵌りした「SATC」もそうだし(今更嵌っててスミマセン)、前クールにテレ朝でやっていた「四つの嘘」も本当に面白かった。出張先のホテルで第一回を見て、「なんじゃこりゃあ…!」とばかりにはまってしまい、主に永作博美見たさで見続けてましたが、毎回「うむむむむ…」とうならされて終わるという。原作は、脚本の大石静自身の新聞小説ということを知って、小説も買って読み、これもまた面白かった。3回くらい読んだ。
さらに、ちょっと以前の話ですが、桐野夏生「OUT」も本気にズシンと来て、小説はラストでコケた感が否めないものの、映画は、最後までマーベラス面白かった。原田美枝子倍賞美津子室井滋西田尚美ですよ。この4人を見てるだけでも面白かった、
ちなみに、テレ朝の「四つの嘘」の方は、永作博美高島礼子寺島しのぶ羽田美智子(※故人として登場)
どうも、4人のタイプの違う女の、それぞれの性格なり、生き方のクセだったりを、「面白い」と感じているんじゃないのかな、と思う。さらに、普通だったら接点もないし協力もしないような、くせのある女四人が、なぜだか「一緒に」何かをする羽目になってしまう筋書きの面白さもそうだし。
さらには、それぞれのファッションを観察するもの楽しみだったりして、なんというか、「総合情報番組」という感じなのだ。私にとって。


さて、今日から始まった、ドラマ「SCANDAL」
見てみると、非常ーーーーに、胃が痛くなるような第1回だった。
四人の主人公が性格が違いすぎて、クセがありすぎて、おまけに協調性があんまりなくて、のっけから仲が悪すぎ、寝起きで見た私には「こ、これは、第2回は見られないかもしれない…!」と思わせるような「夢のなさ」。ああでも、これが現実ヨネー。とも思う。
だって、「SATC」は確かに面白すぎるほど面白いけど、あれを見て感じる、素朴な疑問。
女4人でこんなに仲いいって、ありえるの?
というクエスチョンに、ある種、回答しているようなテイストだなあと思った。
思うに、「SATC」は、都会生活者の豊富な恋愛やセックスや、ファッション、ライフスタイルなんかが「女の憧れ」に訴えていると言われるけれど、それはもちろん一つの要素ではあるのだが、
もしかして、一番、女の心にアピールしているのは、「まるで、もうひとつの家族のような女4人」という、この結束力なのかもしれない。
女だったら誰でも知っている。女と、しかも多人数の女と同時に付き合っていくのは、じつは物凄く大変だということを。一対一ならいざ知らず、複数人の「女同士」というまとまりが、いかに脆いものかということを。それぞれの属している、社会的、あるいは恋愛的な「階層」を越えて付き合い続けていくのは難しい。それに、多人数と同等につきあう、というケースはあまりなくて、おおかた、4人なら4人の中で、仲のいい2人同士、というのが生まれていくのが普通と思う。
でも、「SATC」にはそういうところはあんまりなくて、キャリーを軸に、気持ちのいい付き合いが続いていくのだった。困難が訪れても、4人いるから、分散し、相対化しあえる。三人だったら、例えばミランダに子供が出来たとき、シャーロットとの軋轢を乗り越えられなかったかもしれない。また「OUT」でも、早くに決裂してしまって、目的を遂行できなかったかもしれない。


そんなふうに、女と、4人、という数とは、何か面白い構造を持っているのではないかと思うのだった。
古くから、数には、長い時間をかけて形成されてきた作用なり、ある意味、真理のようなものが宿っている。
たとえば、2なら、対。陰陽だったり、或いは表と裏、信と偽といったように、二つで一つ、という意味合いがある。(やおいカップリングが全盛するのは、その二人で一つな感じがいいからだ、と思う。)
3なら、三位一体といったような、真理を体現したり、あるいは、真善美というような三原則を表象するのと同時に、対にはなりえない、不安定さを表しもする。なんといっても「三角関係」だし、シナリオなどでは、二人芝居は退屈、三人芝居を書け、と言われたりもして、人間ドラマの基本というべき数のようだ。
3に限らず、人を出すときは奇数がいい、というのも言われる。二人組よりは三人組。四人組よりは五人組。時代をさかのぼると、○○五人衆、なんて例はたくさんあるし、現代だと男女七人夏物語なんかもその例だ。二人の組になれない、絶対に端数が出てしまうところが、状況を動かし、感情を動かし、ドラマにつながっていくということである。

その伝でいくと、「4」という数は、2・2になってしまい、奇数の法則には入らない。ドラマ作りの原則からは外れそうに見えるが、しかし、「女」という数が加わった場合に、4という数は、絶妙のバランスを見せる。ここで、男4人だったら、と考えてみても、あまりパッとする気がしないから不思議なものだ。
4という数は、どういう数だろうと考えてみた。東西南北だったり、春夏秋冬だったり、「それぞれが、それぞれである」という要素が大きいようにも感じる。けれども、さすが2・2の数だからなのかどうなのか、独特の安定感もまた持ち合わせているようだ。同じ偶数でも、ふたつでひとつ、の2以上に安定して感じる。それは、例えば裏と表といった二つの要素では、どうも世界を説明しきれないと、年を追うごとに感じていく、人生実感のゆえんだろうか?
また、4という数は、「四天王」の数である。そう考えると、「女4人ドラマ」の不思議な魅力も、安定感にも、どこかうなずける気がするのだった。それぞれが特徴を持ち、自分の領土を持ち、けれども、火急の時には、ひとつに駆けつけもする。ばらばらだが、ひとつの何かで、ゆるやかに結ばれている。
そんな4という要素が、「4人の女がいる」という形式の不思議さ、魅力にも、つながっているのではないかと思う。

それから、このたび、考える過程で個人的に思い出したのが、そういえば私は、昔から、「四天王」という存在が異様に好きだったなあ、という思い出である。双璧よりも、三役よりも、どうしてか「四天王」が好きだったなあ、とかつての自分を思い、小学生くらいのとき、辞典で四天王の名前をひいてはため息をついていたことなど思い返すと、自分が、女四人のドラマにひきつけられる理由も、自分の中で、説明がついてくるのだった。
4という数の絶妙さ、これは普遍と思うが、それと同時に私自身の持つフェティシズム(笑)も手伝っていたのだと思うと、なんだか、可笑しみがこみあげてくるのだった。自分の嵌り具合をかんがみて、「だからなのか」と笑ってしまう。三つ子の魂百まで、というのは、本当なんですね。

それは神話じゃないぜ

三連休最後の本日、とある飲み会に参加してきました。
その席で、24歳男子の言。
本人はかなりの好人物で、かつ、なかなか「いい話」の文脈中での発言だったわけですが。

僕、いまだに伝説だと思ってますもん。女性に性欲があるっていうの。


一秒固まってしまった。
まだ、伝説信じてる人、いたの・・・!!!
即、「普通にあると思うよ」と突っ込んでしまったわけですが。
けど彼、彼女が腐女子だっていうんですけど、
性欲ない人は、腐女子にはならないと思うよ。


帰路、このご発言が脳裏を離れず、
性欲・・・いやー、ありすぎてすいません!!!!! という気持ちになった(笑)
性欲、すわ、セックスと思うから、そう考えるのかしら?
しかしそれは、「ゲームを好きな人が、全員、スーパーファミコンを好きというわけではない」というのとおんなじことだよ。
男子と女子では、好きなゲーム機がだいぶ違うという、そういうことなんじゃないのかしら。
そして、彼女氏は、もしかしてスーファミより他の機種が好きだということなんじゃない?
しかしながら、そう考えてくると、ラブ=セックス=愛のバロメータ という考えは、とても、窮屈なものですね。
スーファミよりPSPが好きでも、ゲームが好きなところに変わりはないのにね。

オタク友達とのトラブル  ――「腐女子こうもり」と「腐女子・トラブル」




どうして、「オタクの友達」というのは、ただそれだけで特別なんだろう。
本当に安らげる親友も、高校時代からの付き合いで最愛の友達もいるのに、彼女たちとの会話では決して満ちていかない部分がある。その部分だけが自分ではないけれど、しかし、それは物凄く大きな部分なんだよな、ということを、最近、とみに思うのだった。
オタク、の語の指す意味はとても漠然としているけれど、でも、オタクでなくなった自分はやっぱり自分ではない、と思う。
長年のオタク友達とこじれたことを引きずって、人の輪から遠ざかってしまい、人とのつながりが希薄になって、このブログすら野ざらしになって久しい今日、つくづくとそう思うのだった。


男の子とデートをしても、仕事でほめられても、楽しい本を読んでも、むなしい。
自分の真実を表に出していないような気がする。
推測するに、ゲイなりレズビアンなり、マイノリティのセクシャリティを持つ人が日常の中で感じる疎外感やむなしさ、「本当の自分でない感じ」というのは、通底するものがあるのではないかと思う。
セクシュアル・マイノリティにとって、そのコミュニティは、とても大切なものだと聞く。ときに自殺すら思い留まらせるほどに、同好の士とのコミュニケーションは心を癒し、活力をもたらすということだ。
私の置かれた「場」は彼らほど深刻なものではないかもしれないけれども、
でも、オタクとしての私にとって、それは、まったく同じことなのだった。



オタクとコミュニケーションしない毎日はさびしい。たとえ漫画やアニメに抵抗がなかったり、同じ作品が好きな相手であっても、自分の問題意識を共有できなければ切ない。誰かと、腹を割ってとても深いところまで(それもオタクのことで)、話し込むことができない毎日は苦しいものだ。それは、話す中身や、その情熱が、自分の内実に奥深く根ざしている物事だからだと思う。



今思うと、なぜあんなにオタク友達とこじれてしまったかということも、自分の中の、これを違えてしまうともう自分ではない、という部分に、嘘がつけなかったということだろう。だから、自分のあり方を裁かれたり、介入されたり抑圧されたりということが、とても嫌で、とても苦しかったのだった。
といって私には、それは唯一無二のコミュニティであった。私はそこにいる人たちが好きで、生きていく意味とかなりの部分重なるほどに、大切なものだったからだ。だから余計に抱え込み、うまく対応することが出来なかったのだろう。



私はそこから出て行きたくはなかったし、できるなら静かにそこにいたかった。だからオタクのことで、「おまえは腐女子ではない」と言われたり「非腐女子の〜」と冠をつけてブログに書かれたり、そうやって差別化をされることが、私にはとても苦痛だったのだ。当人はそれを、区別だと思っていたようだ。けれども「違う」という言葉には、どうしても否定の意味がつきまとっている。それは発話者には気づきにくい毒で、私自身気がつかずについ使ってしまう。けれども、受け手は、敏感に削り取られていく。その「違う」は、心をとても冷たく冷えさせてしまう。違う、違うと繰り返されるたびに、私は排斥されていく思いがした。そもそもなぜ、区別をされなければいけないのか、それを言及されなければいけないかが分からなかった。それは以前にも書いた「腐女子こうもり」ということなのだが、その「違い」をあげつらわれるのは、私にとって、「そこにいる権利」を、脅かされることに似ていた。ひとりだけ毛色の違う生き物であることをあげつらわないでほしい。信徒の中の、たとえ異端であっても、そのことを責めないでほしい。なぜなら、私も、等しくその神を愛しているのだから。


私はずっと、そう言い続けてきた。心の中で。
けれどもその思いがはっきりと言葉を獲得できたのは、それから随分経ってからのことだった。
私には、その体験を解釈し、回収し、表現するための言葉がなかった。
そのときの私は真っ暗闇の中にいて、ただ、彼女の介入に困惑していた。
彼女は私を腐女子ではないと定義し、お前は我々とは「違う」と繰り返し言う。けれども、一方では「お前は腐女子なのだ」と言い、「お前は腐女子なのか?」という問いにイエスと答えることを、言動の内外に強く求めていた。
それが介入でありハラスメントであり、私が困っているということ。そのことすら、当時の私には言えなかった。その真意を説明する、明確な理論がなかったからだ。彼女にノーを表明してしまうと、私の発するノーの要素は全て、腐女子そのものへのノーであり差別であり軽蔑に解釈されてしまう、そういう構造がそこには作られていた。(それが、「違う」という言葉の陥穽なのかもしれない。)
そういう帰結がしたいのではなく、私にとってその問い自体が介入でそしてどういう意味合いでノーなのかを説明しないことには、私はその問いの檻から逃れられない。その状況はとても苦痛で、ひどく息苦しいものだった。イエスともノーとも言えない、ダブルバインドに私は立たされた。そのことを、彼女は、気がついていたのだろうか?
そのとき私は、たった一言、「その問いの立て方では、答えようがない」と言えば良かったのだ。
はいと答えてもいいえと答えても、私は自分を偽り、大切なものを失う。もともと、答えようのない問いかけには、答えることができないのだ。
けれどもそんなことすら、そのときの私には思い浮かばなかった。
それほど追い詰められていた。そして無知だった。


彼女と私とでは、状況の把握が違った。
彼女は自分こそがマイノリティで、私を、腐女子というマイノリティを攻撃する敵、多数派と捉えていたと思う。けれども私には、彼女こそがマジョリティだった。トラブルが起こる前から、そう感じていた。
そんな、立場の不均衡を、ずっと感じていた。彼女は、自分が「か弱きもの」で、自らの地歩を死守するという勢いで私を攻撃してくるけれども、本当は私の方こそが脆弱なのに、と。少数という以前に、私は個であり孤だった。
権力は「状況の定義権」を握っている者のところにあるという。その意味でまさに、権力を所有しているのは彼女のほうだった。女子オタクという大状況においても、そのコミュニティという小状況においても。


多数派と少数派の権力関係について、支配や差別について、深く考えるようになったのはそれからのことだ。
腐女子というマジョリティにいた彼女には、一見多数に思える「それ以外」は実は、女性のオタクの中ではちりぢりのマイノリティに過ぎないのだということが分からなかったのかもしれない。
「それ以外」とは、自らの志向を「名指しする言葉」を持たない者の集まりだ。だから突出して多数であるところの腐女子の「男キャラと男キャラとの恋愛カップリング志向」に対置して、「〜〜ではない」という言葉で自らを表現する構造になる。否定形でしか自らの志向を言い得ないという状態は、実はとても不自由で、弱いものだ。しかも、「〜〜ではない」者たちが一枚岩かと言えば、決してそうではなく、各々の志向のもとに分散している。ちりぢりに光る宇宙塵のようなものだ。
共通認識というショートカットによらず、一から、自分の言葉で、自分の志向を説明しなければならない。それはとても労力のかかることだ。そして、自己の要請に発してではなく、外から、説明するように迫られることは、さらに負担を強いられることだ。そしてそれが、セクシュアリティに関することであったら、一体、発話者への負荷はどれほどだろう。(しかも、相手の基準で、その「是非」を裁かれるために)
この構造は、腐女子というタームが世の中で取りざたされるようになって以降、外部から腐女子に対して繰り返されてきた問いかけの構造だった。けれども腐女子というカテゴリの中でも、それと同種のことは起こる。
腐女子というタームが取りざたされ、膨大な視線が流入して以降、「腐女子」はトラブルの状態に置かれた。それはエリア内部の撹乱をもまたもたらしたのだ。私のこうむったこの体験は、私にとって、最も大きなトラブルだったのではないかと思う。


私はそれまで25年と少し生きてきて、そこまでの人生の中で、これ以上に困ったことはなかった。
このときほど強く、「どうしたらいいのかわからない」という状況に立たされたことは、
実は、それまで経験がなかったのだ。
その時私は、自分が、このエリアについて、いかに言葉を持っていないのかに気づいた。
つまり女子オタクや腐女子や、やおい、二次創作、それらとセクシャリティとの関わりについて。
それは、トラブルの相手である彼女にしてみても、同じことだった。いくら字数を費やし、また時間を費やしても、問題は堂々めぐりのままで、その状況を問い直し、俯瞰する言葉というものを持ち合わせていないのだった。
自らの「好き」を表現する言葉を持っていないこと、人の「好き」を取り扱うのに、適切な表現を身につけていないこと。それは私にとって、愕然とする気づきだった。
そして、いかにこのエリアに批評が存在していないか、「好き」と「嫌い」で動いてきた世界であるかを、実感させられたのだった。それはもしかしたら、良いことであるかもしれない。外に対して自分たちの「好き」なり、考えていることなりを説明する必要はないし、分かって頂く必要もまたないのだった。エリア内部にしてみても、角突き合せて議論をするよりも、より「好き」な方向に各々が集い、享受を深めることの方が、各人にとっては良いのかもしれない。そんな「ロス」をする時間が惜しいほど、みな夢中で忙しかったというのが、実際のところなのかもしれない。


けれども私はこのトラブルに接して、自分が言葉を持っていないということに、また相手に言葉が伝わらないということに、本当に困ってしまったのだった。
まず、相談できる友人が限られていた。オタクを知らない人間に話したところで、揉め事の本当のニュアンスは伝わらない。次に、オタクの友人の中でも、「こうもり」の肩身の狭さといおうか、やおい志向への違和感や、やりにくさを感じたことのある友人となると、さらに限られていた。志向を名指しする言葉がない、集う旗を持っていないということが、こんなに寄る辺ないものだったんだと初めて知った。


一日や二日の体験ではなく、年単位で続いてきた体験だったこともあって、
始めは、全く言葉にすることも出来なかった。誰かに話したくても、或いは問われても、
周辺的な言葉しか生み出されてこないのだった。私にとってそれは、とても重い、嫌な、経験として、鉛のように心に残っていた。
けれども、コミュニケーションの本や、セクシュアリティの本を読んでいくなかで、次第に、この体験に対応する言葉が、自分の中に蓄えられていった。
最も大きな示唆を与えたのは、掛札悠子「『レズビアン』である、ということ」という評論である。
そこには、女性のエリアにある人間が、そのセクシャリティにおいて、外部から名づけられること、また、その名づけと自己を対置させて咀嚼し、自らもう一度自己を定義すること、さらに、その名づけで自ら「名乗る」こと、外から「名乗らされる」こと、その過程と痛みが(痛みという言葉などでは足りないような痛みが)、克明に記されてある。
腐女子をめぐるトラブルは実は、女性のセクシャリティをめぐる問題であること、
そして、そこに権力の構造が関わっていることを、この本の示唆を得て私は知った。
腐女子」とは「セクシャリティ」である、という自分の論理も、そのプロセスのなから生まれてきたものだ。
腐女子の語がまだ世の中にない時代に書かれ、徹底して「レズビアン」という自己をめぐる問題について思索する評論だが、そこには、私の体験した悩みや痛み、ほしかった言葉が、おどろくほど、くっきりと描かれていた。なぜここに私のことが書いてあるのだろう、というぐらいに。
私は、彼女に「名乗らされる」ことが嫌だったのだ。自らの定義によってではなく、彼女の定義で自分を「名乗らされる」ことが嫌だった。まるで自分で名乗ったかのような文脈を負いながら、その実、彼女の定義に回収されていくこと、それを強いられていることが、どうしても嫌だったのだ。



それが言葉になるまでに年単位の時間がかかり、いまでも、そのときの体験は塊のまま残り、
自分の中で、憎しみや悲しみの炎を上げたりする。
それが「嫌だった」という思いは、今も動かず、変ることはない。
けれども、そうしなければ生きてはいけなかったのだとしても、これまでのプロセスから言葉を獲得しえたということは、たったひとつ、良かったと思っている。
このまま、自分にとってとても大切なことを、暗がりのまま、言葉に出来ないままで、他人に説明も比喩表現もできないままで、それで良かったとは、とても思えない。
今の状態のままあのときに戻れたらこんなことにはならなかったのだろうか? と、時々考える。
けれどもそれは詮無い疑問だし、それに、一度完全にその枠組みから外に出てみることが、私には必要だったのかもしれない。そうしなければ、見えず、また、つかみえない言葉だったのかもしれない。



オタクとの仲は得がたい仲だと思う。
それを、不慮のことで壊してしまわないために、あるいは有事に適切なコミュニケーションができるように、そのための訓練だったと思えば、意味のある道程だったのかもしれない。
自分のコミュニケーションが、それまで、メールとネットを無意識に第一義として選択していたことも、そのときにならなければ気がつかなかった。何もかもを、メールで言えると思っていた。メールで来たら、メールで返さなければいけないと思っていた。けれどもメールは決して万能ではないし、物事が込み入っていればいるほど、また、否定や批判、疑義などマイナスのベクトルが強ければ強いほど、むしろ関係を阻害する、致命傷になりうることに、その経験がなければ、私は、ずっと気がつかなかったと思う。


今の自分が、コミュニケーションが得意になったとは思えない。
けれども、あのときの情けなかった自分より、少しマシにはなれたんだと考えて、筆をおくこととしたい。
繰り返しになるが、オタク友達との縁は得がたいものだ。
萌えの実のない人生なんて。とても、むなしいものだ。

上野千鶴子・信田さよ子「結婚帝国 女の岐れ道」講談社


こんばんはお久しぶりです、森井です。
最近はDVDを見まくる毎日でしたが、そのさなかに上の本を読みました。
なんとまあ、身もふたもないタイトル。内容はタイトルの通り、ずしっと、がしっと響くが、どこか爽快です。
対談形式で書かれているので、非常に読みやすく、頭の中の、いろんな筋肉を刺激してくれた。


最近、友人が日記で書いていたこととも色々かぶっていて、タイムリーでもありました。
つまり女性にとっては、「仕事をし、経済的自立をするだけでは完全ではない」「ひとりの男に選ばれなければ価値がない」という社会的プレッシャーがあり、各人の中にも内面化されているので、それがいろんなところに影響を及ぼしてくる、ということです。たとえば、DVに苦しんでいるのに、離婚できない、その足枷ともなってしまう。なぜなら「選ばれた女」の座から転落してしまうからです。
そこには女同士の階級闘争があり、経済的・精神的な「女女格差」を生み出している。
相対的剥奪」がキーワードで、要するに、人は絶対評価で虚しさや劣等感をもつのではなく、「人と比べて」欠落を感じたり、コンプレックスを感じたりする。そして、女性の場合は、「仕事で自分を立てる」「恋愛で選ばれる」という2項のパラドックスを抱えているために、さらにその「相対性」が混乱した状況にあるよ、という話です。
自分の経験だと、過去「わたし、男が切れたことない」とアピる癖のある人がいて、ああ、これがこの人にとっては自慢なんだなあ… と思ってきたわけですが、これなどまさに、上の、「自分の階級」のデモンストレーションということでしょう。何のためにそんなこと言うのかといえば、やっぱり、示威行動なんだと思います。しかし、そこからさらに「結婚」ひいては「母」まで行かなければ階級ゲームの上がりとはならないわけですから、「その道」で自分を立てていくプランも、しんどいものではあります。


読み終わって、さて、私は何で自分を立てているのだろう、と考えてみると、それは疑いなく「仕事」の路線でした。
私が、故郷から一人で、地縁もなにもない東京に出て来て、精神にも肉体にも失調をきたさずやっていけるのは、仕事をし、自分で自分の生活をまかなっているからです。
考えてみると、「男がいる」=「アイデンティティの担保」という路線は、私の高校・大学での環境、友人関係において、マイナーな路線でした。それは「裏コード」であって、たぶん私の周りの同級生たちは、心の中では、「それはそれ、これはこれ」と考え、仕事で自分を立てていくことを当然のように考えていたのではないかと思います。「cancam」も読むけど、就職は当然総合職だよね、という感じ。そんなメインストリームの中で生きてきて、さらに女子の部分も相当度外視、結婚願望も淘汰しつくした感のある私は、もしかして相当「男」なのかもしれないと、この本を読んで、つくづくと思いました。
男が切れたことない、から、私はスゴイ、という価値観に、全く、共鳴できないのです。
男がいるから、さらに結婚しているから、私は「完成者」、そういう考えには、全く、同意ができないのでした。
そういう階級性からは降りたい。実際、降りてしまったら、とても楽になった。だけども、そこから降りるまでに相応の道筋を経過し、心を傷つけたことは事実で、ひょいっとそこに至りつけたわけではない。
そして、世の中は、まだずっとこの階級性で動いていくし、プレッシャーも継続し続けている。
非婚化、晩婚化、少子化、は、決して自由度を裏付けるものではなく、様々の価値基準の中で、女性がダブルバインド、トリプルバインドの環境に置かれていることの表れではないかと思います。


結婚による「上がり」あるいは「ショートカット」を放棄したことによって、私に立ち現れる最も大きな問題は何かというと、それは、「子供を産むのか、産まないのか」という問題で、もうすぐ28というこの年齢になって、いよいよ先送りにできなくなってきたと感じます。非婚も晩婚も自由だけれど、肉体的な限界は動かすことができない。この本にも、そのことが書かれていますが、非常に、身につまされて読んでしまいました。
母が私を産んだ年齢を、自分が越えてしまってから、それは、ずっと考えてきた問題でした。そしてこの年齢になってきて、この一年、とみに、自分の体が「若さ」を抜け、「成熟」に傾いてきたと感じるのでした。まったくの印象論なり、「女性の適齢期」的なものを内面化した考え方なのかもしれません。けれども、自分自身の生的な実感として、自分が子産みの年代を迎えたことを、このごろ、強く感じるのでした。生物としては、ここで産むのが、ベストのタイミングなんだろうと。
けれども私の社会的現実や、意思はそれを裏切っており、それをどうしたものかと考えながら、結局は生的な、肉体的な体のピークを見送っていくのだろう…、と、最近は思います。考えるというより、半ば諦観として、そう帰着せざるをえないのでした。


何かを得れば何かを失うし、何かを失えば何かを得る、私が、自分の意思に従った結果に得て、そして失うものは、いったい何なのだろうと、とみに考える、社会人六年目の夏です。



結婚帝国 女の岐れ道

結婚帝国 女の岐れ道

よしながふみ「きのう何食べた?」――ゲイスタデイーズやおい、のことと合わせて

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)






隠しても隠しても、にじみ出る頭の良さ。



よしながふみの特徴を一言でいうと、これだと思う。
この人は実は、自分が「頭がいい」っていうことをあまり良いことだと思っていなく、
できれば、「そこ」で目立ちたくない、と思っている、
でも、どうしても、書くものからあふれ出してしまう―― 読んでいていつも、そう感じているのですが。
その「頭の良さ」が一番、「きのう何食べた?」には、濃く表れていると思う。
この洗練度、構成力、そしてホモ語りの技術
どれをとっても見事で、はっきりいって、ケチのつけようがない。



この、あまりの完成度の高さが実は苦手で、モーニングで毎回読んでいたのにコミックは買ってませんでした。
今まで、よしながふみ的な「クレバー」な感じは、びしびしと感じれど、いやだと思ったことはなかった。
でも、この作品の連載第一回目を読んだとき、なんだか「うっ…」となったというか、
あまりにも洗練されすぎているところが、平たく言うと「鼻についた」。
その苦手意識で、連載も恐る恐る読み(ファンって、こういうところが馬鹿だね〜・笑)、
コミックスもつい最近買った体たらくだが、やっぱり面白く、「何回でも読んでしまう」。



この構成の技術は、やっぱり、「愛がなくても食っていけます」で培われたんだろうな、と思う。
食べ物のことと、日常とを一体化して、漫画に落とし込む技術が磨かれているのを感じるし、
「愛がなくても〜」のときは「食べ物と日常の漫画」の段階だったものが、
きのう何食べた?」になると、そこにさらに、「自分の問題意識」を織り込むことが可能になっている。
それが話の中で邪魔にならず、しかも話として面白く作ってあるのはすごくて、
よしながふみの漫画においての、ひとつの達成ではないかと思う。



以前から作品を読んで感じてきたことではあるが、よしながふみは対談集の中で、
どうして男同士の話に惹かれるのか、というくだりで、
「私がゲイを書きたいのは、初めから虐げられている人たちの話が書きたいからだ」と語っていた。
とくに社会的な問題のない男女の恋愛に比して、性的なマイノリティで、あきらかに不利であるゲイの人たちのことが書きたいと。
それはフェミニズム意識とも関わっていて… という流れであった。
対談集のその個所を読んで、ああ、やっぱり、「そう」なんだ… と、非常に腑に落ちる思いがした。




あまりその手のものを読まない人にはピンと来ないかもしれないが、
その系統は、やおいには綿々とあって、
私はそれを、個人的に、「ゲイスタディーやおい」と読んでいる。(私の勝手な造語です。)
つまり、作品において、「ゲイスタディーズ」をやる、ということである。



BLとしての商業性(ライトで、エロくて、ハッピーエンドで)を要求される商業作品よりも、
二次創作系の作品の方が、その度合いが濃くなるかもしれない。
「ゲイ」の生活を調べ、ゲイ雑誌を参考にし、社会学や心理学の資料にもあたり、非常に綿密に、「ゲイとして生活し、恋愛する彼ら」を描き出す。
ここで特徴的なのは、ああ、すごく調べて書いてるんだなあ・・・ ということが分かるように書いてあるということ。
キャラクターの人間描写や心理描写にも勿論非常にウエイトはある。が、それ以上に、というか、それと並行して、というか、「ゲイの生活」がこの人は描きたいんだなあ、これが、この人の「書きたいこと」なんだなあ… というのが、ものすごく伝わってくるのだ。書き手の、執心の置き所とでもいうのだろうか。
「男同士」だということでキャラクターはものすごく悩み、カミングアウトとか、親との軋轢、友人たちとの関わり方、同居をして勃発するいろんなトラブル・・・  そういったことを、「ものすごく現実味を持って描こうとする姿勢、あるいは関心」とでもいえばいいのだろうか。
「ゲイスタディーズ」と名づけるのがしっくりくるような世界が、そこには展開しているのだった。



私が、「ゲイスタディーやおい」を読んで感じることは、
書き手は、自分の恋愛、および結婚のシミュレーションを、そこで行なっているのではないか、ということだった。
それは、やおいをめぐる古い議論にあったような、カップリングへの自己同一化とか、実際の男女関係へのモラトリアム、ひいては成熟拒否の心理といったことが言いたいのではない。
そんなに単純な問題ではないし、それに私の実感では、やおいを書いたり享受したりすることと、実際の恋愛・結婚の進捗度は、ほぼ全く相関がない。やおいを享受するのがモラトリアムだという考えは今はもう廃れて久しいと思うが、そんな識者の論が寝ぼけて響くほど、女子(あるいは女性)の現実は「待ったなし」である。
やおいを生み出す、享受する側は、「現実」をもうとうに知っていて、そして、ある意味では知りすぎている。
私が感じるシミュレーション感は、そうした地平にあっての、「シミュレーション」である。
それは決して、現実からの逃避ではない。むしろ、「現実」と共存するためにこそ、必要とされるプロセスである。



「ゲイスタディーやおい」から私の感じること、それは、女性の内界にとって、恋愛・同棲・結婚というのが、いかに巨大なものであるか、ということである。女性の人生は常に選択を迫られている。男性もそうだけれども、女性の場合にはその選択の局面に伴って、「自分を変える」という仕儀がともなっている。恋愛はまだ、比較的スムーズかもしれない。が、次はたとえば、結婚するか、しないか。結婚するなら、仕事を辞めるのか、続けるのか。そして子供を産むか、産まないか。一人目を産んだら、二人目も産むかどうか。恋愛の進行が、そのまま、何十年にも及ぶ、選択の繰り返しにつながる。
そのことをきっと、実体験のある・なしを問わず、女性は「知って」いるのだと思う。
そういった巨大な現実を――実際に、恋愛関係や、結婚を考えるような局面に立てばなおさら巨大な現実を――、書き手は、「ゲイスタディーやおい」の中で、解体していっているのではないだろうか。
また、「ゲイスタディーやおい」を書きたい、と思う動機は、そこにあるのではないのだろうか。
それは、巨大な現実と共存していくためのシミュレーションであり、
また、自分の損なわれた何か、飢えている何か、困惑している何かを埋めるためのセラピーであり、
また、現実はそうはなりえないであろう何か、実際に「そうはならなかった」何かを、物語テキストの中で回復したり、完全化させようとする試みではないのだろうか。
恋愛から始まり、結婚で終わる、長く巨大な道程について、書き手は、ひとつひとつのパーツを自分の手で触れ、吟味し、そしてまた世界に配置するように、ひとつずつ、駒をゆっくりと進めていくように、時に、どうしてそんなに、と感じるほどの細かさで、作品世界を作り上げていく。そして読み手は、その世界観に共鳴して、自分の求める要素を吸収していく。
リアルなゲイ生活を描いたやおい、が熱く好まれ、愛されるのは、単に「それが好き」というのはもちろんあるとしても、一方では、こうしたことが関わり合っているのではないかと思うのだった。



私自身は、「ゲイスタディーやおい」には批判的だったし、今も、どこかで、懐疑的な気持ちを捨てることはできない。
どうしてそれを描くのかは分かるし、描くのも、読むのも、全く自由だと思う。
ただ、私個人の考えに照らすなら、それは、「ゲイの生活」を、高所からもてあそんでいるように、どうしても思えてしまうのだった。
ゲイ恋愛を「パラダイス視」することにも懐疑的だし(だが、その「過酷さ」すら「パラダイス」として転化して自己を癒さなければならないほど、現実が屈折を要請しているのもまた事実なのだ)、あるいはそうやって、箱庭の中で「ゲイ」を操作するということにも、一抹の疑問を感じるのだった。いくら「実情」を調べたとしてもそれは、自分のために借りてきた「対象」であって、その彼らの「問題」を作中で「解放」してあげる(作品によっては暫定的「答え」であるにせよ)というのは、一面では、ずいぶんおごった手つきであるともいえる。
「ゲイスタディーやおい」を読むと、なんともいえない気持ちになって、なんだか、「盗人たけだけしい」という言葉が浮かんでくるのだった。二次創作なら文脈を盗み、キャラクターを盗み、そして自分自身は陰に隠れてキャラクターを「しあわせ」にしてあげる。ひどいことを書いているけれども自分自身にも向かう言葉なのだ。自分自身を鑑みても、そこに、自分の「救済」が、確かに含まれているのだった。けれども、それでは、自分自身の「リブ」はいったいどこにいったのか。自分のリブを棚上げにして、相手を「リブしてあげる」というのは、ずいぶん傲慢なことではないのだろうか。



私がやおいを読みながら、あるいは書きながら、いつも捨てきれないのは、そうした疑問、ないしは煩悶である。
やおいは女性(もっというと、「男性」以外)のものだが、それは、最も強固なミソジニー女性嫌悪)の表出だと私は思う。
女性の居所のない、女性不在の「しあわせ」。それを読んで、女性が「しあわせ」になるということ。
そうした構図が共感と熱狂を以って循環し、半永続的に続いているほど、女性の現実は痛みに満ちている。




よしながふみの「きのう何食べた?」が、私のいう「ゲイスタディーやおい」である、という主張をしたいわけではない。
むしろ、別種のものだと私は思っている。
けれども、違うものだけれども、水脈は通じている。その長い地層をくぐって、その先に湧き出してきた「表現」であると思う。どうしても「ゲイスタディーズ」に向かっていく気持ち、それを「書きたい」、つまり自分の中で「再構成したい」と思う気持ち、そういう「やおい」、そういったものの集積がなかったら、この作品は成立していないだろうと思う。作家の個人史的にも、現代漫画の状況としても。




先に述べてきたような、「ゲイスタディーやおい」へのやむにやまれぬ煩悶があったから、はじめて「きのう何食べた?」を読んだときに、あっ、またこの手の…? と、拒否反応が出たのは事実である。鼻につく、と感じたのも、そういう気持ちとは切り離せない。
私はよしながふみの「愛すべき女たち」がやっぱり一番心を打たれるから、女性のことを書いてほしくて、「きのう何食べた?」の連載を読むにつけ、なんだか複雑というか、やっぱりホモですか…?  的な(ほとんど「難くせ」である!)、そんな不満を持っていた。
でもそれは狭隘な気持ちだったと思う。



私の考えが一番大きく変わったのは、「大奥」で、家光が女性の姿で現れたときだ。(※「メロディ」本誌掲載持のこと)
あれを見た時に、なんともいえなく鳥肌が立って、しばらく茫然自失した。ものすごく、何かが動かされるのを感じて、そして、やっぱりやってくれた、と、思ったのだった。(勝手に)
「大奥」はフェミ漫画だし(勝手に認定するけど、それは疑いがない)、確実に、私の「何か」を解放してくれる。けれども、女のリブ、に限定するのは狭い話で、「大奥」でよしながふみは、「女の生も、男の生も、それぞれに辛い」ということを描いている。私は、そう思って読んでいる。
私の「不満」は、とても解消されて、ああ、自分は、狭い考えだった、よしながさんごめんなさい、という気持ちになった。



作家は、「大奥」でそれを描き、そして「きのう何食べた?」では、また違ったテーマを書いている。
きのう何食べた?」で描かれているものは、おそらくよしながふみの中に深く根ざしているテーマだし、きっと、のって書いているんだろうなと思う。エピソードや、セリフ、キャラクターのひとつひとつに、その含蓄や、「考えてきた量」が現れている。コミックスを読み返したことでそれがさらに分かって、いま、私は、よしながふみの今の連載状況をかつてなく賞賛したいような、同時代に生きててよかった、というような、満ち足りた、穏やかなフィーバー状態に陥っているのだった。自分でも軽くキモい。というか、書いてきて思ったけど、自分、よしながさんにいろいろ託しすぎ!! でも・・・ 作家を、作品を好きになるってそういうことじゃありませんか・・・ とうそぶいて、筆を置くことにいたします。直近のモーニングも、面白かったですね。